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にんじんと読む「懐疑主義(松枝啓至)」🥕

第一章 ヘレニズム期の懐疑主義

ヘレニズム時代とは、マケドニアアレクサンドロス大王(前三五六-三二三年)が没した後、前三〇年頃に地中海一帯がローマ帝国によって統一されるまでの約三百年間の時期を指す。

懐疑主義 (学術選書)

 この頃の思想は主には「ストア主義」「古代懐疑主義」「エピクロス派」の三つがあった。共通している目的は無動揺(アタラクシア)に至ることである。そのために私たちを取り巻く世界をどのように知っていくかは重大な問題だった。古代懐疑主義以外の二つの思想は、「ある仕方で私たちは正しくものを知ることができる」としたが、古代懐疑主義は「世界についての知識なんか持てません」とした。知識の可能性を否定する古代懐疑主義は、あらゆる事柄について判断を保留する。重要なのは判断保留(エポケー)であり、いかなる表象にも同意せずまた不同意もしないことが、アタラクシアへの道だとされた。

 いかにも正しそうに思えることに対してノーを突き付ける手段をセクストス・エンペイリコスがまとめている。

  1.  動物相互の違いに基づく方式 同じ事物でも動物によって同一のものが受け取られるわけではない。しかも人間の受け取りが正しいとは限らない。ゆえにその事物が自然本来的にどうかは保留する。
  2.  人間どうしの相違に基づく方式
  3.  感覚器官の異なる構造に基づく方式 諸々の感覚は互いに異なっている。それぞれの諸性質だけをもつのか、実際は一つなのかはわからない。
  4.  情況に基づく方式 情況によって受け取り方が違うこと
  5.  置かれ方と隔たりと場所に基づく方式 いる場所によって感じ方が違うし、近づけば正しいとはいえない。
  6.  混入に基づく方式 受け取るにしても必ずなにかといっしょに受け取られるのでその事物がどうなのかはよくわからない
  7.  存在する事物の量と重宝に基づく方式 事物の本性はものの量と調合によって異なるものになる。
  8.  相対性に基づく方式 事物はほかのものとの関わりのなかであらわれるため、自然本来の事物の姿などわからない
  9.  頻繁に遭遇するか、稀にしか遭遇しないかに基づく方式 同じ事物でもあんまり出会わないものだと驚き、よく会うと驚かない
  10.  生き方と習慣と法律と、神話を信じることと、ドグマティストの想定に基づく方式 特定の習慣ではこうであるといえても自然本来ではどうかわからない

 要するに「対象を認識したといっても一側面。そんなことではその対象の本性を捕まえたことにはなりませんよ」ということだ。一側面のよせあつめが対象の本性であるわけでもなく、しかも一側面さえもそれを正当化するものがなく疑いうるものなので、どうやって正しい知識なんて得るのか?

 この10の方式を考案したのはアイネシデモスという人だが、この人のあとにアグリッパという人が5の方式を挙げている。2,4,5番目を抜き出して「アグリッパのトリレンマ」とも呼ばれる。

  1.  反目を論拠とする方式 問題となっている事柄について判定不可能な論争が起きているため、どれかを選び取ることも斥けることもできない
  2.  無限遡行に投げ込む方式 なにかを確信させるために持ち出されたものを確信させるものはなんなのか、と一生突き詰めていくやり方。最終的に判断保留にするしかない
  3.  相対性を論拠とする方式
  4.  仮設による方式 無限遡行を避けようとして設定した最初のものは、単に仮設として証明されもしないので議論自体が疑わしい
  5.  相互依存の方式 Aを成り立たせるために使われたものにAが使われていないかを疑うやり方

 古代懐疑主義者たちは自分たちにどう現れているかということと、物事が実際にどうであるかをはっきり区別している。「物事が実際にどうかなど気にしなくてもよい」と懐疑主義者は教えている。

 

懐疑主義 (学術選書)

懐疑主義 (学術選書)

 

 

第二章 モンテーニュ懐疑主義デカルトの方法的懐疑

 西洋ではルネサンス以降、古代ギリシャの文献がラテン語訳され、その頃の思想が流行にもなった*1。しかしこれらの思想はキリスト教にとって都合の悪いものばかりであった。協会はこれを排そうとしたが、近世になって古代ギリシャの思想を生かして自らの思想を作り上げる哲学者が続々と現れてくる。

モンテーニュの信仰主義】

 ここでの懐疑主義キリスト教懐疑主義であり、知識が疑われるというのは人間の無力さを暴くものとして捉えられた。真理は啓示によって与えられる*2

デカルトの方法的懐疑】

 デカルトはあらゆる学の根本に形而上学を見出し、その第一の真理を見出すために「方法的懐疑」を用いる。要するに私たちの心の中:「観念」というものの正当性を認めさせるために、懐疑主義の懐疑を爆弾にして徹底的に降らせたのである。

 疑い得るものはすべて保留する。これは懐疑主義と同じだが、懐疑主義が「そのように見えていること」と「実際そうであること」の区別を用いて「実際そうであること」を攻撃したのに対して、デカルトは逆に「そのように見えていること」を徹底したのである。

 

 

 

 にんじんは古代懐疑主義について知りたくて「懐疑主義」という本を手に取ったのだが、ここからはデカルトを批判的に検討し、知識とはなにかという問題に入っていくので割愛する。

 デカルトがつくった「内/外」の区別はドレイファス&テイラーによって媒介説と呼ばれたが、これについての批判は

近代哲学の根本問題 Part.5 ドレイファス&テイラーの解決 - にんじんブログ

 にまとめた。

*1:当たり前のようにさらっと書いているが、ルネサンスは14世紀であり、古代ギリシャは紀元前である。それまでは普通にはまったく知られていなかったことになる

*2:宗教と哲学の違いは物語で説明するかどうかだという話が『幸せになる勇気』で出ていたが、そうではなく、違いはまさにこの部分にあるとにんじんは思う。「正しいことは与えてくれる」これが宗教。現実的には、教会本部か教典がその役割を果たす。