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にんじんと読む「実在論の新展開(河野勝彦)」🥕 カンタンメイヤスーの思弁的唯物論

カンタン・メイヤスーの思弁的実在論

 カントによる認識論的主観主義(認識は対象に従うのではなく、対象が認識に従う)は、対象というものが主観の加工を経て生み出されるものだとした。われわれにあらわれるものは純粋な客観などではなく主観と緊密に相関しているとする〈相関主義〉のはじまりであり、現象の背後にあるはずの「物自体」には決してたどり着けないとした。しかし「物自体にはたどり着けない」としながらも、物自体の存在について触れるカントの不徹底を反省した現代哲学はこの物自体について存在さえ認めず、認識不可能で思考不可能であるとした。前者を〈弱い相関主義〉、後者を〈強い相関主義〉と呼ぶ。

  •  カントは「物自体界」に無矛盾律を認める。物自体が存在しなければ現象も存在しないはずだが現に現象は存在しているのだから、現象が存在せずかつ存在するという不合理な命題を受け入れることはできないから。一方で、理由律は否定する。物事には理論理性で説明できないこともある。たとえばカントは神の存在証明は不可能であると断じている。理由律は経験的な「現象界」においてしか成り立たないのである。

 メイヤスーはこれらの流れを受けて、強い相関主義者が物自体を思考不可能だとしたことについて、いくら思考不可能でもやっぱり物自体があることは動かせないだろうと考えた。いくら思考不可能だといったところで、その存在自体は揺らがないはずだ。

 彼はその点についてもう一度考え直すために、物自体の存在を否定することだけをやめて、相関主義の流れをすべて受け入れる。すなわち、①われわれが関われるのは相関関係だけだということである(主観と客観の循環を受け入れる)。そして、②そこには究極的な理由がないのである(理由律の否定。物自体に達することが出来ない)。世界のすべてのものの存在には、なんの理由もない。これを「無理由の原理」または「事実論性の原理」と呼ぶ。

我々は、ある規定された存在者が実在するということが必然的であると主張するのではなく、すべての存在者は実在しないことができるということが絶対的に必然的であると主張するのである。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

  到達できない世界は、いかなるものも不可能ではないハイパーカオスである。理由がないのは事物だけではなく、世界の法則さえもそれが成り立っている理由がない。すべては究極的に偶然的である。

 メイヤスーの課題はここから「物自体の存在」と「無矛盾律」を導出することである。それはカントが正当化することなく単に認めることにした二つの言明であった。

  •  諸事実は偶然的である。ここには二つの解釈がある。(1)もし何かが存在するならそれは偶然的である、(2)事物が偶然的であること。そしてそのような偶然的な事物が存在しなければならないこと。メイヤスーが行うことは二番目の解釈を正当化することである。この理屈は一言でいうと、「事物なしにカオスとは言わんやろ」である。
  •  ハイパーカオスはそれを縛るいかなる原理もないため、無矛盾律にも縛られないかのように思える。思惟の法則としては無矛盾律を充たさないことはありえないが、存在の次元でそれが絶対にないとはいえない。にもかかわらず、メイヤスーは無矛盾律が成り立つという。なぜならハイパーカオスがハイパーカオスであるゆえに生みだせないものがあるからだ。それは「必然的な存在者」である。カオスがこれを生みだすと、そこがカオスではなくなってしまう。このことを受けてメイヤスーは、「矛盾的なものを生みだすとすれば必然的な存在者を生みだしてしまう」ことを論証しようとする。矛盾的な存在があったとしよう。それは既に、それでないものである。ゆえに「変化」ということがありえない。つまり矛盾的な存在は変化を免れる。そこがカオスであるのに! というわけで無矛盾律は成立する。

 それにしても、根源的にはハイパーカオスの世界でありながら、なぜわれわれは安定して生活ができているのだろうか。少なくとも今のところ、ボールを手から放して上にのぼっていったことはない。もちろんそのようなことが成り立っているのも偶然的なことなのだろうが、しかしそもそも根本的に、「すべてが偶然でありながら安定的である」などということがあるのだろうか。たとえばサイコロを考えよう。この世界サイコロは同じ目ばかりを出し続けている。ならばそこに「イカサマ」といった必然性を見出すのは当然のことではないだろうか。つまり安定的である以上、偶然であるはずがない。/しかしメイヤスーはこれを否定する。君はサイコロでたとえたが、ハイパーカオスにおける可能性は無限大なのだ。6回に1回程度の割合でそれぞれの目が出るはずだから、君はそこに偏りを感じるだろうが、この宇宙サイコロはそのような議論を許さないほど徹底的に多様なのである。確率的なサイコロと、宇宙サイコロを混同してはならない。安定的でありながら偶然的であるのは、ありうる。

 以上のメイヤスーの立場は、「因果的必然性」を認めないことを帰結する。水が100℃で沸騰するのは偶然的なことでありそこには究極的に根拠はなく、いわばいつでも崩壊可能なのである。

 

実在論の新展開

実在論の新展開

  • 作者:河野勝彦
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本