古代懐疑主義のアタラクシア
哲学をすることによって、少しでも自分の生がより善きものにならないのであれば、哲学は無駄なものである―――この点について、古代の思想は一致している。それは「古代懐疑主義」=「ピュロン主義」においてもそうだった。これが現代の懐疑主義との違いのひとつである。
また、現代の懐疑主義は、その懐疑を提出しているほうも信じていないような疑いを差し向け、極めて鬱陶しい茶々入れ屋として面倒がられている節がある。彼らは誰かがなにかを「知っている」と主張すればたちまち、それを批判する。それは古代懐疑主義も同じだった。しかし古代において、それは現代よりも徹底されていたのである。なにしろ、彼らは知識だけではなく、信念さえも批判したからである。たとえば私たちは科学を別にやっていなくても、小さい頃から水を火にかけるといずれ沸騰すると信じてきた。現代懐疑主義者は別に信じていることについて文句を言いはしない。しかし古代懐疑主義者は「沸騰するかしないかなんてわからない」といって、攻撃する。なぜかというと、それによってその人の生がより善きものになるからである。
彼らは信念(つまり知識も含む)を批判することによって、それについて肯定も否定もしない判断保留をするように求めた。それによって人は「本当に正しい」などといったことに囚われることなく、〈無動揺〉(アタラクシア)に至ることができる。これが幸福への道だった。
だが疑問も湧く。やかんの水が沸騰することもわかっていないようなやつが本当に幸福になれるのかと。それどころかまともな生活すら営めない気さえするかもしれない。だがそうではない。古代懐疑主義者は、その外面において、ふつうの人々と一切変わるところはない。たとえば普通に生活しているのはもちろん、近親相姦についてはぞっとする反応も見せるのである。しかし、内的な状態は著しく異なる。
なぜなら、価値の現われに対する彼の反応は、まさしくそれだけのもの――反応――にすぎないからである。彼が物事を善いもの、あるいは悪いものとして受け取る仕方は完全に受動的である。彼は、自分自身の倫理的な考え(信念)や性向に疑問を差し挟むことも、それらを熟慮すべき、あるいは関心を寄せるべき適当な対象とみなすこともしない。(略)彼はそれを、自分の本当の関心の埒外にあるとみなすことができる。
幸福はこのような超然とした無動揺のうちにある、と彼らは考えている。彼らは気持ち悪いものを気持ち悪そうに見るが、それについて無頓着でもあるのだ。気持ち悪いものがどういうわけか〈現われ〉てくるが、それについて何か言ったり、疑問をもったりはしない。現われに対して、ただ反応する。それだけである。彼らは近親相姦が本当に悪いことであるなどと思っているわけではない。近親相姦についてなんの考えももっていないである。でも気持ち悪そうな顔はする。
この考えには惹かれる一方、絶対違うだろという気もする。肯定も否定もできないので、やはりこれについても判断留保し、ただアタラクシアのうちに居続ける。
エピクロスのアタラクシアと対比して
アタラクシアが幸福に至る道だといったのはエピクロス哲学においてもそうである。
だがアタラクシアを目指すなら、判断留保ではなく、きちんと現実を知ることによるべきだと彼は言う。彼は「原子論」を支持し、それを広めた。古代懐疑論者が「そんな心配してるけど本当にそうですかね」と言うのに対して、エピクロス哲学は「なんか知らんけど全てのものは、ちいさいナニカの集まりやねんから気にせんでええねん」と言う。ちなみにエピクロスのいう「原子」というのは現代のように物質的なものではない。
ところがアタラクシアに至る方法として、やりやすいのは明らかに古代懐疑主義者のエポケーであると思われる。エピクロス哲学はいろいろ勉強して「達した」ところでなければアタラクシアに至れない。もし反論され、間違いを自覚し、体系が崩壊でもしようものならパニックになるだろう。そして問題は、自分が寄りかかっている「知」は完全確実に保証されることがありそうにないことである。
これに対して古代懐疑主義の判断保留(エポケー)はある意味気楽である。「水が沸騰することもわからないと思いこむとか無理」と言うかもしれないが、それは恐らくまだ古代懐疑主義のいう判断保留を考え損なっている。前述したように、古代懐疑主義者は普通に生活できる。楽しいことは楽しく感じることができるし、キモいもんはキモい。お湯が欲しくなったらケトルのボタンを押すに決まっている。しかし「絶対に、お湯は沸く」などとは言わない。お湯が欲しいときにケトルのボタンを押すのはそりゃそうだが、「押したんで絶対沸きますね」とは言わない。「沸くかもしれないし、沸かないかもしれない。わかりません」。これがエポケー。両方ともどうにでも言えてしまうので、私にはどっちかわかりません、という態度である。エポケーというのは哲学的な小難しい言明をストップするという以上に、日常に深く食い込むもののはずだ。
【自分と相手の線引き】
エポケーは自分と他人のあいだに線引きをすることにもつながる。たとえばしゃべっている相手の眉がちょっと動いたとしよう。それはもしかするとあなたの言動が気に入らなかったのかもしれない。だが、逆に言動を気に入ったとも考えることは容易である。むしろポジティブマンならそう考えることだろう。われわれはその喋っている相手本人ではないので、そんなことはわからない―――〈判断保留〉。
これができれば、以前にんブロでも紹介してきた小難しい心理学の理論などまったく必要ではない。判断を徹底的に排除していく。「わからない」と言う。多くの心理的な問題は考え過ぎることで起きるが、この「考えすぎ」というのは、実は「判断しすぎ」ということなのではないか、とさえ思える。
アタラクシアとは無感情とは異なる。相手が眉を動かした時に「うわ、嫌われたかも」と感じる。嫌な気分が現れている。その現われはどうして起こってしまう。それを認めるなということではない。その現われをもとに何かを判断しようとする自分を、徹底的に黙らせるのだ。
古代懐疑主義はエリスのピュロン(紀元前360年頃 - 紀元前270年頃)により始まり、紀元後200年のセクストス・エンペイリコスの著作『ピュロン主義哲学の概要』において初めてその思想がまとめられた。
⇩ エピクロスの過去記事をひとつにまとめたやつ