夏休みを利用して取材旅行に行ってまいりました!
湖南だけでなくなんと湖西のほうまで足を伸ばし、なんと湖北のほうまで行ったのですがそのときの模様は別の場所で紹介するとしまして、
この記事では「うばがもち」という滋賀県のお菓子を紹介したいと思います!
「うばがもち」は滋賀県草津市の和菓子
滋賀県草津市は中山道と東海道が交わる宿場町として有名です。下の写真が交わってるところです。
下の写真の場所が「本陣」と呼ばれるメイン宿で、大名や旗本、幕府役人などが宿泊しました。敷地や建物が当時のまま残っているなかで最大級のもので、草津市の観光では真っ先に出てきます。ちなみににんじんが行った時は休館日でした。( ˙ᾥ˙ )
草津市は国道一号線の通り道でもありますが、その道中にうばがもち屋の本店があります。
こちらにはカフェがあり、うばがもちを美味しくいただくことができます。
写真左にあるチョコンとしたお菓子が「うばがもち」です。うばがもちはいわゆるあんころ餅の一種で、餅を小豆でできた餡で包んだもの。たとえば三重県伊勢市の赤福餅も、あんころ餅です
食べるとすぐに餡の味がします。噛むともちもちとして大変おいしいです。若干飲み込みづらいモチモチさなのでよく噛んでから食べましょう。にんじんは喉にちょっと不安があるタイプのお野菜なので、もっそもっそ噛んでいただきました。三粒でけっこうな満足度です。
ちなみに中に入っても「いらっしゃっせーー!!!」「いらっしゃせーー!!!!!」って大声で言われません。普通の大人しそうな店員さんが控えめな挨拶をしてくれます。にんじんのようなノンフレンドお野菜でも安心して入ることができます。
お帰りの際は草津駅前に支店もありますのでおみやげにどうぞ。
歌川広重が描いたうばがもち屋
歌川広重が書いた下の絵は「うばがもち屋」を描いたものです。でも実はこの場所は国道一号線沿いの、先ほどの本店の場所ではないことがわかっています。
上の写真を見てください。
うばがもち屋の前にカゴが通っているのはよくわかると思いますが、向かって右に笠をかぶった二人がいるのがわかるでしょうか。実はここはちょうど二つの道が分かれる「分岐点」にあるお店で、さてどっちに行こうかというので、うばがもちを食べながら旅人が考えた茶屋と言われています。
http://blog.livedoor.jp/minamibiwako/archives/6417365.html より引用
その分岐とは「船」か「徒歩」。次の宿場は大津でしたが、そこへ行くには船でいってもよし、歩きでいってもよし。上の写真のようなルートがあったのです。
- 勢多(瀬田)へ廻れば三里の回り ござれ矢橋(やばせ)の舟に乗ろ
- 武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
- 瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案の乳母が餅
現在、この茶屋は残っていません。この場所には「株式会社瀬川元 瓢泉堂」があります。
うばがもちの歴史
そもそも「うばがもち」というのはどのように生まれたのでしょうか。現在のうばがもちを製造販売している南洋軒もその歴史を説明しているが、実はそれは諸説のうちのひとつにすぎません。
- 江戸時代に乳母が餅屋を営んでいた金沢家の記録である「金沢よし子文書」があります。それによると、近江の国を本拠とした源氏(げんじ)・佐々木家の旗本である旧勢田庄奉行・矢倉越前守藤原国重の子孫である福井久右衛門重好という人がいましたが、重好が早くに亡くなったためその妻である「との」という女性が餅屋を営み生計をたてたのが始まりだとあります。彼女が作った餅は、後になって姥が餅と呼ばれるようになったそうです。(「金沢よし子文書」)
- 時は寛永(1624年 - 1644年)、代官をしていた近江源氏正統・佐々木左京太夫義賢の子孫は、攻撃を受け、滅ぼされてしまいました。生き残った彼の曾孫(3歳)を乳母が引き取り、草津へ行って密かに養いました。彼女は餅を作って街道に出て「懐きたる子はよしある子なり。其養ぐさえ」と言って、餅を買ってくれと頼みました。やがて小さな店が開けるようにまでなり、その餅は乳母が餅と呼ばれるようになりました。(通説。「『伊勢参宮名所図会』(寛政9年/1797年刊))
- 姥が餅の起源はさらに古いとする説もあります(応永年間(1394~1428))。これは福井家の二代目(初代は重好)の利左衛門重孝が「瀬川」と改姓したあとの瀬川八代目が皆川淇園(1734~1807)に依頼して書かせた『養老亭記』に書かれています。養老亭とは大きな庭園を伴った「姥ヶ餅屋養老亭」のことで、『近江名所絵図』にもその養老亭が描かれています。養老亭には大名が立ち寄る座敷もあり、鹿児島藩や徳島藩などの大名が参勤交代の途上に食べたという記録も残っています。
- また『近江国輿地志略』によると、大坂の陣に向かおうとしていた徳川家康が草津を通り、そこにいた「乙(おと)」という婆さんが献上した餅をいたく気に入り、「乙餅」として広く知れ渡るようになり、やがてそれが「姥餅」となった、という説もあります。
ちなみに南洋軒がうばがもちのロゴに書いている「永禄十二年」という文字は佐々木義賢が織田信長に滅ぼされた年です。
また、【山本栗斎(1843~1909)が『近江栗太郡志』に記したところによると、慶長19年(1614)より前から矢倉村に餅屋が1軒あったのは確か】だそうです。
現在のうばがもちは乳母にかけて乳房に似せたものと言われ、地元の契約農家の有機米から作られる餅を北海道小豆で包み、すりおろした山芋を混ぜた白餡が上部に乗せてある。20年以上前にはこの白餡の部分は砂糖だったそうだが、いつから乳房の形になったのかは不明だ。作り手も姿も時代と共に移り変わってきたうばがもちだが、街道を歩く者にとっては一度は味わってみたい東海道一の名物である。