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「STATUS AND CULTURE」vol3(改訂)

 

文化の大いなる謎

どうして人間はある特定の行動もしくは慣習をこぞって取り入れ、何年かするとさしたる理由もないまま別の行動もしくは慣習に一斉に乗り移るのだろうか?

STATUS AND CULTURE ――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか? (単行本 --)

ステイタスと個人

ステイタスの基本原則

 《ステイタス》とは、社会における各個人の重要度を示す非公式な指標のことである。ごく普通の田舎町で育った犬がドック・ショーに連れられて行ったとき、チャンピオン犬と間違えられてとんでもない好待遇を受けるとき、チャンピオンが有しているものこそがステイタスである。そうでなければ、田舎の犬はごく普通の参加者として特別扱いを受けられなかったに違いない。

 現実のほとんどのステイタスはわかりやすくランキングにはなっていない。しかしそれでも、重要””度””という風にゆるく序列づけられる程度には高低が決まっている。ステイタスが高ければ高いほど特別な待遇と独占的な恩恵がある。むしろ逆に、そうしたものがステイタスの高低を決定している。ステイタスは個人間の相互作用のなかにみられる純然たる社会現象である。無人島に漂着した一人の人間にはなんのステイタスもない。逆にいえば、ステイタスの位置は特定の時間と場所で受ける扱いに基づく文脈に左右される。ドック・ショーにやってきた田舎の犬は、田舎ではめっぽう可愛がられていたかもしれないが、高級住宅街では見向きもされない。

 ステイタスは日常生活の質を左右する。社会学の先駆者であるピティリム・ソローキンは「階層化されておらず構成員同士が真に平等な社会集団は神話であり、人類史において一度たりとも実現されたためしはない」と言っている。すべての社会集団は目標を有し、その達成に大きく貢献する構成員が必ず存在する。そういうスタープレーヤーに何度も離れ業を演じさせるために他よりも多い恩恵を受け取る。このメカニズムは社会集団の本質にかかわり、必ず階層が形成される―――非常に明快だ。「ステイタスは高ければ高いほどいい」ステイタスによって得られる恩恵のひとつは社会的承認である。たとえ同じ内容の仕事でもステイタスの高い人がやると多くの注目と報酬を得ることになる。また、希少な手段や物質を利用し、高いステイタスの人々が集まる社交場へも出入りでき、他者を支配することもできる。反対に、ステイタスが低い人は生活の質が悪化する―――こうしたわけで、誰もがステイタスを求めるが、ステイタスというのはゼロサムゲームであり、誰かが上がれば誰かが下がる。だからより高い評価や尊敬を求める行為は社会的な対立を生む。

 自由と平等を標榜する社会では《生得的地位》に根差した制度は陰湿なものとみなされ、《獲得的地位》に根差した制度で組織されるのが理想形とされている。そこでは生まれではなく、成果に応じてより高いステイタスが得られる。つい最近まで生得的な地位は生涯変えがたいものであったが、封建的な身分制度の崩壊とともに、生まれながらの階級と決別し高潔な努力によって自己を再構築する道が拓かれた。時代や社会状況において成果の中身は変わってくるが、現代においてはおおよそ次のような具体的な「資本」を有することがグローバルにステイタスを決定づけている。

  1.  教育資本 大学の学位や資格。これを有することは個人の知識・批判的思考・優れた雇用機会を得る可能性があるとみなされている。
  2.  職業資本 医師や弁護士、大学教授といった職業。
  3.  経済資本 高額の金銭をため込むこと
  4.  社会関係資本 エリート層との平等な関係で構築された広範なネットワーク

 個人的な美徳や、本人が有する美はこれらを得るための手助けにはなるが、ステイタス自体を変動させない。素敵で魅力的な人間はどの階層にもいるし、億万長者と付き合えても億万長者になれるわけではない。大物になるためには相当量の資本を蓄積し、しかも複数の資本を蓄積しなければならない。それが人間のランキングを安定させる。

 もちろんだが、生得的地位は今もって重要である。金持ちの家に生まれるほうがステイタスは得やすい。だというのに、いつでもステイタスを高めることはできるかのように社会は振る舞うので、人々は自分のステイタスに「責任」を感じている―――もっと身ぎれいにしろ、もっと学べ、もっと人当たりをよくしろ、もっといい仕事につけ、もっと働け、鍛錬しろ。実は最高位にいる人ですらさらに求める。高い教育資本を有するものは経済資本を求め、経済資本を持つものは社会関係資本を求める。そして誰もが、ちゃんとした段階を踏まずに、つまり自分と同じぐらいかそれ以下の資本しか持たないくせに高いステイタスを求めたり得たりするやつを「不当」だとみなす。

 あくまで上記は主流なステイタスであって、私たちは非常に多種多様な《二次的ステイタス集団》に属して生きている。たとえばサッカーがうまいことがステイタスになる集団もあれば、反社会的であることがステイタスになる集団もいる。大半の人間は生まれながらにして属しているステイタス集団にとどまり続けるが、ある程度高いステイタスをもたらしてくれる人間関係のほうに魅力を感じる。二次的ステイタス集団への加入は恵まれない個人がとる巧妙な戦略のようだが、しょせんはローカルなステイタスであるという事実があり、自尊心にとってはステイタスはグローバルなもののほうがよいと実証されている。これに頼るしかない人に比べ、富裕層はどちらも享受できる。

《ステイタスの基本原則》

  1.  わたしたちは高いステイタスを望み、低いステイタスを恐れる。
  2.  わたしたちは才能、後件、財産、正しい行いによって自身のステイタスを変えることができる。
  3.  わたしたちは身の丈の超えるステイタスを求めるべきではない。
  4.  わたしたちは自身をより高く評価してくれる集団に移ることができる

ステイタスと慣習

 ステイタスを獲得するための基本的な前提条件がある―――集団規範への服従。ありとあらゆるステイタス集団および階層は、構成員に特定の行動を取ることを求める。なぜ私たちはそれに従うのか。ステイタスだ。わたしたちは社会的承認を得るため、社会的非難を避けるために慣習に従う。慣習は法的に整備されることもあれば、有機的に生じることもある。ゆるやかな決めごとが集団の標準的な行動になるには、誰もがそれを知っていて、誰もがそれを知っていることを誰もが知っている状況が必要だ。そしてその常識がステイタス集団の構成員たちは自分たちがどのような見た目にし、どのように振る舞うべきかについて、時間の経過とともに相互に期待を抱くようになる。期待が裏切られれば幻滅する。それがステイタスに影響してくる。正常な位置を維持したければ集団の期待に応えなければならない。わたしたちのほうも最初のうちこそ意識的に行動を調節して慣習に従うが、それがやがて内面化してくる。内面化すると、慣習は最後の力を解き放つ―――知覚の枠組みを作るのだ。もっともわかりやすいのが色の区別だろうか。時間感覚もそうだし、そもそもなにが正しいのかさえ決める。残念なことに慣習はいつも平等なものとは限らないが、それでも破れば社会的に非難を受ける。

 慣習は社会的承認と非難というアメとムチを使って人間の行動様式を創出する。

 すべての慣習が同じぐらいの価値を持っているわけではない。慣習の序列付けはそれに従うことで得られるステイタスが反映したものになる。高ステイタス集団のみが従う慣習には高い価値があり、低い集団のものは低い。くしゃみをした人に「お大事に(bless you)」といっても風邪が治るわけではないが、この魔法の言葉は当り障りのないステイタス価値を持つ。むしろ何も言わなかったり、風邪以外のその他の感染症について言及するほうが社会的非難を浴びる。単純に椅子を購入するのでも実際の座り心地よりもそれが与えてくれるステイタス価値が考慮に入る。高層の人間がやっている慣習は実に魅力的に見えるもので、たとえ使いにくかろうが脳が勝手に合理化する。わたしたちの合理的な行動はまったく合理的でない可能性がある。

 集団のなかで普通のステイタスを手に入れるためには、そこの慣習に従わなければらない。敵対集団の慣習などまちがっても模倣してはいけない。より高いステイタスを目指すならばバッシングを受けないように低リスク戦略をとることが普通である。①その集団で合意されているステイタスにおいて、めざましい業績をおさめる。②高ステイタス集団の慣習を一部拝借する。やりすぎると白い目で見られるが、集団の誰もが高ステイタスの慣習は正しいものだと思っているので言い訳が立つ。ところで、最上位集団はどうするのか。彼らには拝借する高ステイタス集団がない。彼らにあるのは我が道を行くことだ。他者との真なる差異化である。このような型破りな行為が認められるのは高ステイタスの人間の特権である。大半の人々は完全なる服従と純粋な個性とのあいだのスペクトルのどこかに身を置く。

シグナリング

 わたしたちは《シグナル》《手がかり》《意図的な欠如》という三つの情報から他者のステイタスを評価する。まず《手がかり》とは、体格や体形、歩き方、話し方、落ち着きの程度など、自分ではどうすることもできない隠しがたい特性のことである。習慣や躾、教育、コミュニティの所属などがあらわれ、容易に変えることができない。それは無意識的もしくは長期的な条件付けの結果なのだ。次に、《意図的な欠如》とは、慣習に従うことを拒否したり、求められているのとは別の慣習に従うことだ。つまり何かを言わないこと、何かを所有しないこと、何かを持たないことがすべてステイタスを示すサインとなる。このことを突き詰めれば、わたしたちはつねに他者に対してステイタスを発信し続けており、止めることができない。《シグナル》とは、個人による操作が可能な、その個人に付随する可観測の属性または行動である。わたしたちはそこで自らのステイタスの主張に積極的に関わっていくことになる。《シグナリング》とは、個体がほかの個体に選ばれるために特定のポイントを示して自分の質の高さを伝えることであるが、これはとても高い技術を必要とする。ステイタスをことさらに主張することはステイタスが低い証拠とみなされる。なぜなら恵まれている人は主張などしなくても恵まれているからだ。ステイタスの高い人はステイタスに無頓着なのである。だから「私は高いステイタスの持ち主なので丁寧に接してください」「私を誰だと思ってる」という発言は彼のステイタスを下げる―――この《無頓着の原則》が存在するために、すべてのステイタスシンボルはアリバイを必要とする。高級車の宣伝文句は「これを買えるなんて金持ちだ」ではなく「素晴らしい機能」であるように。個人は可能な限り自分を高く演出しようとするものだが、アリバイの獲得のためにはやはり、高ステイタス集団の正当性を利用する必要がある。ステイタスに言及せずに正しいからこそそれをするのだと主張するのだ。

 シグナリングのためのコストは一般的に五つある。①金銭:富とステイタスが連動しているという事実のため、②時間:能力や資格を手に入れるには時間がかかる、③独占的な使用:特定のチームの特定のユニフォームは立ち入れる人間に制限がある、④文化資本:ステイタスの高い人々と交わらなければならない。慣習がわからないから。⑤ルール破り:社会的非難を受けかねない――――金銭が最もわかりやすいコストだが、富裕層は何百万人もいるので、最も信頼できるステイタスシンボルは金だけではたどりつけないようになている。エルメスバーキンは価格がべらぼうに高いだけでなく一定の客にしか売らないから価値がある(金がすべてではない、という言葉をここで思い出してしまう)。

 ただシンボルを使ったシグナリングは、それがわかる人にしか効果がないという欠点もある。実際、エルメスバーキンを知らない人もいるだろう。だからシンボルの認知度も問題になる。また、わかってもらえたとしてもきちんと意図したとおりのステイタスを見てもらえるかはわからない。そこでこのような下手な鉄砲数打ちゃ当たるという作戦よりも、より確実にステイタスを伝える方法がある。

  1.  ステイタスを評価する側に最もふさわしいステイタスシンボルを選ぶ
  2.  相手の反応を見て調節する
  3.  冗長性=シンボルを重ねて重ねて重ねる。(やりすぎるとうざい!)

 そしてもちろん、相手がテクニックを駆使してステイタスを偽っている場合もある。

センス、真正性、そしてアイデンティティ

 古めかしい、どこかエリート主義的に用いられるところの「センス」とは、美的判断を正しく下せる能力のことである。健全な精神を持ち合わせていれば優雅を極めた芸術作品やスタイルやファッションを「いい」ものと感じる、とされる。多元主義的な現代では、美の基準はそれぞれで異なるのだから美的感覚について議論してもしょうがない、とされる。どこかが優れているのではなく、単にセンスが違うんだよ、という文脈で語られるのが今の「センス」だ―――すなわち《センス》とは、特定のライフスタイル選択についての傾向である。

 《センス》はその人自身であり、ステイタスの追求と個人のアイデンティティの形成を結びつける概念である。今まで学んできたことからも、美的選択を行ううえでステイタスという文脈は外せない。なにが「いい」ものかは内面化された慣習によって変わるのだ。そしてもちろんその「よさ」は、他者のステイタス評価にも用いられる。センスとはまず第一に赤の他人を自分の仲間であるか判定する作業を補助する””マッチメイカー””である。他者評価は《シグナル》《手がかり》《意図的な欠如》の三角測量によるのだから、センスはまさにこの統合と呼べる。そうして社会集団の似たようなセンスが寄り集まる。つまり、同じ美意識を共有している人々が集まる。このような「嗜好世界」はかなりの程度で社会的地位に関係してくるというのは、おおもとを考えれば当然である。そしていいセンスを持っていることは、その社会においてはごくごく普通のことである。さらに磨きをかけるには、深い造詣とライフスタイルとの調和、そして独自性が求められるが、まさに社会的地位を上げる仕方と一致している。そしてそれはつまり、偽られたセンスもあるということだ。

 本物のセンスとは、その人が歩んできた人生の旅路に根差したものであるべきで、計算づくで借用したり獲得したりするものではない。それが自然なセンスだ。自然でない場合は疑わしい。だから最も強力に本物であることを示すものは、やはり、その人の生まれなのだ。低ステイタスの人間は自らの生まれからなぜ今の高い立場になったかのストーリー・バックグラウンドを築かなければならない。そしてその層の人に認められることで「何者か」(アイデンティティ)が判定される。

 そこで、私たちには三つの「自分」があることがわかる。

  1.  ペルソナ 社会的な相互作用のなかで創造される表向きの表現。ステイタスを得るために付け加えられ、減らされ、編集され、削除されうる、他者に表示する等身大パネル
  2.  アイデンティティ ペルソナによって他者から判定される結果。
  3.  自己  潜在的意識から生じた本能的欲求。

 宇宙レベルで見ると、それぞれの人間は完璧に独自の存在である。問題は他者が自分をどう見るかだ。その圧力がペルソナを、自分の等身大パネルを、いじることに駆り立てる。ステイタスを駆け上るためにこそある慣習を選び、ある慣習を無視するようになり、資本の集積だの才能の研鑽だの個人的美徳だのといった見栄えのいいシンボルを目指しだす。たいていみんな同じ目標だ。より慎重に選ぶ場合は、それが自身のステイタスの頓着しているように見えないかどうか、自分というものとその生活に調和しているか、自然なものに見えるかどうかを気にすることになる。そうしないこともでき、慣習など知らないと暴れまわることもできなくはないが、結局舞い戻ってくる。社会的制裁をなめてはいけない。ペルソナをどんなものにするかは原理的には自由だが、普通の場合、ほぼ自由ではない。独自性を出すことは貴族の特権だということを思い出そう。「自分らしくあれ」と、このもともとから不平等な世界で言うことは、高ステイタス民の戦略でしかない。低い地位の人間は、まずステイタスを上げることからだ。

 ペルソナの結果であるアイデンティティの価値が高いと、別に孤独でも気にならない。道徳哲学者たちは自分の価値を他者評価で決めてはいけないと言い続けてきた。だがこれまでの叙述でわかるだろう―――文無しの取るに足らない存在としてなら道徳的理想を追いかけることができ、二十四時間、本物の自分でいることができる、と。人間はステイタスにとりつかれているわけではない。ただ、他者と過ごしともに行為する社会的動物だといっているにすぎない。ステイタスを超越したアイデンティティなど幻想であり、純然たる独自性など存在しない。

 

【ステイタス獲得戦略】

  1.  ステイタスの基準を上回るパフォーマンスを見せ、その事実をシグナリングで明らかにすべし。
  2.  ステイタスが高いふりをすべし。
  3.  自分に有利になるようにステイタスの基準を変えるべし(ただし、これが使える人は既に一定のステイタスがあるがゆえに社会を説得できる)。
  4.  新たなステイタス集団を確立すべし。