うまくできていない人間
仕事でやけに怒る人がいる。たぶんストレスが溜まっているんだろう、などと思ったりもするが別にストレスという言葉になにか特別の含みがあるわけではない。ただ「あの人は自然本来的にはああいう人物ではないのだけれども日々の疲れによってああいう風にたまたまなってしまっているのだ」というぐらいの整理の仕方はしているように感じられる。しかしながら、ストレスフリーで外界と完全独立な自然本来の彼の姿など拝むべくもないのは言うまでもない。そしてもっと深刻なことには、大抵の場合、そんな事情があったところでこっちには何の関係もない。突き放すような書き方だが、誰とでも何らかの関係にあってがんじがらめになっているよりは、健全な状態である。
ダブルチェックというのは、二人で確認することでエラーを少なくしようとする試みである。漫画のキャラクターでもない限り、人間というものは絶対に一定の割合でエラーを起こす。そんなことは誰でも知っているのだが、なぜか恐ろしくミスに厳しい人がいて、二回目の検査をした人がミスを見つけると一回目の検査をした人に「しっかりしろよ!」と激怒する場合がある。基本的に怒る人とは関わってはいけないというのは原則(にすると非常に有益)なのだが、関わってはいけないといわれても関わらなくちゃいけない場合もある。事故に遭いたくて遭うやつはいない。
にんじんは労働にやる気がない。にんじんコンテンツにはやる気があるが、労働にはない。これも極めて当たり前のことである。勤め先の成績がよくなろうがどうしようが、にんじんにはまったく関係がない。もちろん上がってくれれば一応嬉しいし、下がることを望むわけではないし、破壊工作もしないが、別にどうでもいいといえばどうでもよい。こういうふわふわした気持ちもまた、にんじんが平均的な考え方をしているのならば、当たり前のことだと思う。さて、職場の仲間がミスをしたとしよう。にんじんは特に怒らない。もし時間給で仕事が退屈ならばむしろ喜ばしくさえあるかもしれない。いや、そういう細かい利得計算をしているわけではなく、怒らない。なぜかといえば、怒る理由がないからである。
しかし相手が陰湿な場合はどうだろう。怒りたくもなるし、怒るだろう。耐えがたいほど陰湿なやつがいたら、怒るついでに仕事を辞めるなどして関係を断てばよい。では相手が親であるなどして関係が断てない場合はどうするのか。それには色々な手段があるだろう―――そして正直、この路線で話を発展させてもまったく甲斐がないと感じる。なにしろ、批判者はにんじんの回答よりもはるかに過酷な例を出し、その過酷な例が少数ではないことを示し、こんな人たちはどうするんだと問えばいいだけだからである。しかし、にんじんは政治家ではないから、彼らをなんとかする義務はない。
もちろんつらい話には胸が痛むし、なんとかできる手段がありその手段を講じてもにんじんが許容できるほどの損害しか被らないなら、救うに決まっている。南極にいるあの可愛い皇帝ペンギンのヒナは、そのほとんどが餓死で死ぬ。誰がバケツに餌を運んでやればいいのにと思うが、そんなことはあらゆる意味でできない。だが地球温暖化とかオゾン層の破壊とか、そういうことで協力はしてやれるかもしれない。というわけでクーラーをできるだけ使わないようにしてみたり、消費を少なくしてみたりする。たぶんほとんど意味はないんだろうと思う。が、結局のところ、なんにしてもそんなものだろうとも思うのである。
にんじんは人間それぞれの独立性について語りたいわけでも、怒ってはならないといったような道徳について語りたいわけでもない。たとえばアドラー心理学は「怒ってもなあ汗」みたいなスタンスで書いてあることが多い。たしかに精神衛生上、怒らないに越したことはないが、威嚇してみせることには意味がないわけではない。裁判所とか、第三者機関に言う前に、まずちょっとそういう風に言い合ってそれで事が済むならそのほうがよい。また、「そうする理由がない」などと色々言ったが、にんじんがなにかを見て胸がつまるとか、悲しいと感じることは行動の理由になる。あくまでも因果必然的な理由がないということである。因果によって強制的にやらされている善的行為など、道徳的でもなんでもない。そういう意味ではこの記事は「規則のリストが道徳であるという倫理的主張には反対である」というメッセージではありうる。
にんじんは人にものを頼むときに「いつまでにやる?」と訊く。大抵の場合、いつまでにやってくれとはなかなか言わない。「ここまでにやればこうなる」という風には言う。それで相手が何を思うかはともかく、日付の返事が返って来る。相手に確認し、同意がある。内容によってはこれは『契約』と呼んでも間違いではない。さすがに友達相手に『契約』は重すぎる(法律上は友だちだろうがなんだろうが関係ないが)。
一度締め切りに遅れてきた人がいた。経緯を説明してくれといったら「今更説明しても無駄だからしない」と言われた。そういうわけで契約は打ち切った。履行遅滞だからどうのとか面倒なことをチェックしたうえでの解除だったが、相手が「わかりました」とすなおに同意したので特にその説明はしなかった。
以前まではなにもかも相手に説明しようとしていた。「これはなんとかというもので、ここはこうでああで……」というふうに。しかし誰もそんなことは望んでいないし、そうしないほうがうまく運ぶことにも気が付いた。ところが難儀なことに、「じゃあ適当でいいんだな」と思ってヘエヘエと気楽に生きていたら、それはそれで怒られることが増えた。説明してほしいのかしてほしくないのかどうすればいいんだとわからなくなることもあった。
だが、当たり前のことに気が付いた。わからんと言われたら答えればいい。何をやってんだと言われたら答えればいい。もちろん相手が納得しない場合もあるが、だいたいのことは、そういうものである。そして高望みをするなら、いつも答えられるようなことをしたいものだ。ところが難儀なことに、人間はそううまくできていない。