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にんじんと読む「現代認識論入門」🥕 第一章

第一章 知識の標準分析

【知識の標準分析 K=JTB】 

  • 知っているとは、正しく、本当のことを、思っていることだ。
  • 知識とは、正当化された、真なる、信念(Knowledge=JustifiedTrueBelief、K=JTB

  たとえば「机の上にりんごがあることを知っている」のであれば、机の上にりんごがあることは真でなければならない(真なる)。またその知識を持っている人は机の上にりんごがあるということの意味を理解していなければならないだろう(信念)。そして「よくわかりましたね」と言われて「いや見てないし、教えてもらったわけでもないし、何かあったわけじゃないんだけど、机の上にはりんごがあるんだよな。知ってるんだよ」と言い出したら完全にどうかしている――—つまりいくら正しいことを思っていても偶然たまたま的中したものを知っているなどとは言わない(正当化)。

  •  ところが知識を可能にするこの正当性がまた新たな問題を引き起こす。正しいという言葉にもいろいろあるが、ここで取り上げているのは「認識的な正当さ」である。たとえば、息子はそんなことをする子じゃありませんという母親の言葉は親としてそう思うのは正当なことだが、仮に息子が犯人でなかったとしてもそれを知っていたとはとてもいえない。しかし母親が息子のアリバイについて語り犯行時刻に犯罪を行えないと語りあの子はやっていませんと語るなら、認識的な正当さであるといえるだろう。

 ところが知識の標準分析を真に受けてもいいのかという議論もある。

  •  たとえば「円周率は3.14であることを知っている」と小学生が言ったら正しいだろうが、誰でもわかるように円周率は無限小数である。だから真であるという条件は実はもっと文脈依存的な複雑なものなのかもしれない。
  •  また、信念と呼べるほど、その考えに信じ込んでいなければならないだろうか。馬鹿なのに変に自信があるやつがいるように、自分がまったく自信がないけれど博識なやつもいる。そいつは「これは〇〇だと思う、多分……わからんけど……」というのだが、たいてい合っているのだ。もしこの人が自信家な別宇宙があったとしたら、この二人の知識量には決定的な差がつくのだろうか。そんなことはないだろう。

 また、正当性について「これこれだからです」などと自覚的である必要があるかも問題である。「ここはどうですか」「ああここは駄目だね」「なぜですか」「忘れたけど前調べたんだよな」。適当なことを言ってる可能性はあるが、こういうような場合もわれわれは知っているということに含めると思う。

 

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

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