にんじんブログ

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にんじんと読む「知識の哲学」

  • 形而上学 …… 世界とはどんなふうにできているのか
  •  認識論  …… 世界がどうあれ、私たちはそれを知り得るのか

第一章 なにが知識の哲学の課題だったのか

 知っているとはどういうことか。これについて哲学はこういうふうに定義してきた:「それを信じており、それは実際真であり、それは正当化されている」。これがしかじかを知っているということの古典的意味なのだ。つまり、知識とは正当化された真なる信念である。注意しておくと、これはいわゆる「命題知」についての定義であり、他にもいろいろの知識があることを私たちは知っている。

  1.  Know-that 「しかじかということ」を知っている。(命題知)
  2.  Know-how 「自転車の乗り方」を知っている。
  3.  Know-what 「ヴェジマイト」を知っている。これを知っていれば土産物屋で買って帰れる。
  4.  Know-what-it-is-like 「ヴェジマイト」がどのようなものであるかを知っている。(味、固さといったようなもの。Know-whatの知だけでも土産物屋で買って帰ることはできるが、食べないと味はわからない)

 命題知の定義で最も人を困らせるのは「正当化」という概念である。いちいち理由を言わなければ知っていることにならないのでは困る。だからこの「正当化されている」というのは、「もしも理由を質問されたら、答えられる」ということを意味する。そしてまたその理由が、昨晩お告げがあったから、だとしたら知識として認めるわけにもいかない――――どんどん面倒になってくる。認識論の課題はまさにここにあって、お母さんが買って来たケースの中にドーナツが入っていることから、ブラックホールの存在まで、認識論的に正当化されているとはどういうことかをズバリ説明しようとしたのだ。【課題1:正当化ってどんなもの?】

 認識論的に正当化したいのは、それが「真理を知る」という目的を持っているからだ。時間も空間も超越してなんでもかんでも実地に見ることができればこんな正当化はいらないが、私たちは有限な存在であるので、証拠を以てして真理にアクセスする。すなわち、この目的からすれば、我々が得ようとする正当化には真理への接近を保証するようなものが含まれていなければならない。【課題2:その正当化は真理に近づける?】――だがこの課題は容易ではない。なにしろ、この正当化は「正当化の正当化」であり、一切なんの「知識」も使うことができないからである。

 

第二章 知識に基礎づけが必要だと思いたくなるわけ

【どの推論でいく?】

 命題QがPから推論されるとき(P⇒Q)、演繹には三つの特徴がある。

  1.  真理保存性:前提が真なら結論も真
  2.  単調性:正しい推論にいくら前提をつけたしても真なものは真
  3.  情報量は増えない:PかつQ⇒Pは間違いないが、何も新しい発見はない。

 つまりもし演繹推論に頼るなら、「真理性はまあ安心」だが「なにひとつ新しいことがわからない」ことになる。後者が問題で、これから正しいことを知っていこうとしているのに何も発見がないのではどうしようもない。そこで演繹推論ではなく、たとえば帰納的推論などに頼ることになる。だが、すべてのカラスについて調べるのに有限羽で満足していたらたしかな真理とはいえない――――というわけでいずれにしても問題が出る。正当化のためには推論を使うのだから、いったいどの推論が正当化に使われるべきかも議論されなければならない。ただ正当化がしたいだけなのに、こうしてドンドコドンドコと課題が増えていく。

 

【遡行問題】

 またこんなことも言えるだろう。A⇒BでBの正当化が完了したとして、Aの正当化の課題が残っている。そしてその鎖は一生終わらないように見える。(遡行問題)

 そこに現れるのが「基礎づけ主義者」である。彼らは正当化の連鎖がいつかは終わり、正当化のいらない基礎的信念に達すると考えている。基礎的信念を何とするかは人によるが、いずれにしても正当化の鎖が終わると考えるのが基礎づけ主義者だ。

 あるいは「懐疑論」的に、私たちは何も知らないと結論付ける。つまり、ほんとうに正当化された知識なんてものは存在しない。

 あるいは「無限後退」。つまり正当化の鎖は終わらず、永久に遡り続けることができる。無限後退の問題は””いつまで経っても””にあるのではないことに注意しよう。知っているという言葉の定義からすれば、質問されたときに答える能力があればいいのだから、いくら無限後退されようがそのつど答えられればなんの問題もない。本質的な問題は、その人が無限の信念を持っていることだ。無限に答える能力があるのだから、それだけその人の頭には無限の信念が入っている(しかし、信念がそれぞれ命題で脳に保管されていると考えるからおかしなことになるのではないか、とも考えられる。このことは第十章で議論される)。

 あるいは「循環」。つまり正当化の鎖は、どこかでつながる。A⇒B⇒C⇒Aになる。すなわち、Aが正しいのはAが正しいから、ということになる。

 

 以上より、「まともなアイディアは基礎づけ主義だけだ」と基礎づけ主義者は主張する。基礎的信念がなんなのか、そんなものがほんとにあるのか、といった問題は残るにせよ、遡行問題はバッチリ解決できる。だがコトはそう簡単に収まらない。

 まず登場したのが、古典的基礎づけ主義。

 彼らによれば、基礎的信念は不可疑であり自明なので正当化を必要としない。

  1.  AならばAといったトートロジー
  2.  「何かを思っているような私がいる」という信念
  3.  「いま私には赤いものが見えている」「熱さを感じている」といった信念

 しかし結局、古典的基礎づけ主義はうまくいかなかった。理由は、これら基礎的信念と考えられたものが(1)なんの役にも立たずそれ以上先に進めない、か(2)本当に疑い得ないのか、という問題を解決できなかったからだ。

 基礎づけ主義者が見つけなければならない基礎的信念は、①他の信念から推論的に正当化されない、→②だが何らかの意味で正当化されていなければならない、→③推論以外の正当化がなされていなければならない。そこで基礎づけ主義者の次のプランは、スタートの信念が「疑い得ない」という最強のものでなくても、推論的な仕方以外で正当化されていればよいと考えることだ。だがそんな試みは論理的に否定されてしまう。

 

 前提(1) 基礎的な経験的信念が存在するとする。

 前提(2) 信念が認識論的に正当化されているためには、それが真であるとすべき何らかの理由がなければならない。

 前提(3) 信念が特定のAさんに正当化されているためには、Aさんはその理由を何らかの仕方でもっている。

 前提(4) 信念Bを真であるとすべき理由をAさんがもつためには、Aさんは信念Bが真だという結論をみちびくための前提を正当化された形で信じる以外にはない。

 前提(5) (4)の前提はそのすべてが経験によらないものであってはならない(なぜなら経験的でない信念から経験的な信念が出てきてしまうから)。

 

 さて、基礎的な経験的信念をCとしよう。ここでわざわざ経験的と断っているのは、その信念が推論以外のなにかの仕方で正当化されるということを意味している。

 さてこのCを正当化された形で信じるには、その理由を正当化された形で信じる以外にはない。その理由はいろいろあるかもしれないが、そのうちには必ず経験的な信念が含まれる。ということは、Cを認めるためには別の経験的信念が必要になる―――推論の正当化を抜けたと思ったら別のループに入るだけ!

 

 

第三章 基礎づけ主義から外在主義へ

 基礎づけ主義者を打ちのめす五つの前提は次のようなものだった。

 前提(1) 基礎的な経験的信念が存在するとする。

 前提(2) 信念が認識論的に正当化されているためには、それが真であるとすべき何らかの理由がなければならない。

 前提(3) 信念が特定のAさんに正当化されているためには、Aさんはその理由を何らかの仕方でもっている。

 前提(4) 信念Bを真であるとすべき理由をAさんがもつためには、Aさんは信念Bが真だという結論をみちびくための前提を正当化された形で信じる以外にはない。

 前提(5) (4)の前提はそのすべてが経験によらないものであってはならない(なぜなら経験的でない信念から経験的な信念が出てきてしまうから)。

 1を否定することができるわけがない。2を否定するということは、正当化の定義を拒否するということだ。5を否定するということは経験的知識というものの定義から当然成り立つ。だとすると、3か4しかない。

 

①3を拒否して、4を受け容れる ②3を受け容れて、4を拒否する

 

 まず①の逃げ道から検討しよう。すなわち、正当化理由は何らかの仕方で心の中に持っていなければならないが、一方、その理由を「信念」という仕方で持っている必要はないと拒否する。じゃあどんな仕方で持っているのか。その理由は信念よりももっと原初的ななんらかの認知状態という形で持たれており、その認知状態はそれ以上の正当化を必要としないが、正当化を与える能力は持っている……。

 原初的な何らかの認知状態、とはいったいなんなのか。

 次はこれを探さなければならない。その候補として挙げられてきたのが「直観」「直接的な気づき」だった。ここで与えられたニュータイプの基礎づけ主義は非信念的ではあるが、なんにしても認知状態、私たちの心の中の話なので、「内在主義」と呼ばれる。これはうまくいくだろうか。

 直観がなんであれ、それを感覚経験に関するものに限るだろうと考えるのは自然である。「私は赤いトマトのようなものが見えている」とかいう報告がそれで、感覚経験の内容を直接把握しているような認知状態が直観だ。これは本当に正当化を必要とせず、また、信念に正当化を与えることができるようなものなのだろうか―――この立場においてはここが問題になる。そもそも信念を正当化できるというのはどういうことか。「テーブルの上にトマトがある」ことを正当化するものは、なんにしてもこの信念と論理的に関係した内容を持っていなければならないのは当たり前のことだ。それで、この直観というのが命題の形で表されるような内容をもつとしてみると、論理的に、その否定命題の可能性も生じてくる。ならば、証明しなければならない。かといって命題の形で表現できないとしてみると、それは単に外界からの入力を受け取っただけの状態で、なんの内容もないから間違えるということがないという理屈になる。だが、そんなものが何を正当化するというのか。そんなものは認識にさえ届いておらず間違うことはたしかにないかもしれないが、特に意味がない。

 

 

 

 

 今度は②、つまり前提3を蹴って基礎づけ主義を守ることにしよう。3を蹴るということは、『正当化された信念を信じている人は、必ずしもその信念を正当化する理由を心の中にもっている必要はない』ということだ。それはたしかに正当化されているのだが、なぜ正当化されているのかについて、認知的にアクセス可能である必要はないのだ。では基礎的信念の正当化はどこから来るのか?

  •  その信念は外界とのなんらかの関係を持っているということ。
  •  →その関係は基礎的信念を受け容れる理由になっている。
  •  →その関係が成立しているかどうか、その人は認知的なアクセスを持っている必要はない。

 いったいどんな関係なのか。哲学者アームストロングは、『Aさんがしかじかであると信じていることと、世の中が実際にしかじかになっていることとの間に法則的な関連(lawlike connection)があれば』とよいと考えた。「法則的関連」とはなんなのか。ことがらAとBに法則的関連があるというのは、最低限、AであるようなときにはいつもBであるという規則性があるだろう。それに加えて、一方が一方の原因でなければなるまい。なぜなら、歴代生徒会長が「長澤」「山田」……「〇〇」という漢字二文字の連中だったからといって、生徒会長と漢字二文字に法則的連関があるなどとはいえないのだから(規則性はある)。

 さて信念というのはいろいろな形成過程(知覚、記憶、推論、内省、思いつき、……)があるが、『信じられていることと世界のありさまの間に法則的関連が成り立つことが保証されているようなもの』ような形成過程を「信頼のおけるプロセス」と呼ぶことにしよう。このとき、信念が正当化されているとは、それが信頼のおけるプロセスによって形成されたということである。これを信頼性主義という。

 私たちはなぜそうなのか知らないことがありつつも、「そうであることだけは知っている」というようなことがありうる。その点も外在主義は自然であるし、また『ゲティア問題』と言われる哲学上の問題を解決するアイディアとしても非常に重要視されたこともあって、強い影響力を持つようになった。

 

第四章 知っているかどうかということは心の中だけで決まることなのだろうか?

 その人の信念が事実として信頼のおけるプロセスで作り上げられてさえいれば、そのプロセスのことなど知らなくても正当化されているというのが信頼性主義だった。だがなんだかよくわからないプロセスに支えられていますから大丈夫ですといわれても、私たちはプロセスについて認知している必要はないということは『知識の最も大切な要素を無視している』と感じさせる。そう訴えるのは内在主義者達である。

 もしも物凄い精度のいいとされるロボットがいて、気温をバッチリ教えてくれるとする。そのロボットは人間の脳に埋め込まれ、その埋め込まれた人は気温がわかるようになるしそれを信じるのだが、なぜそう信じているのかまったくわからない―――その人は気温を知っているなどと言えるのか?

 だが、たとえば動物だって何かを「知っている」だろう。だが、彼らは正当化などできない。とはいえ、蟻塚の中に手を突っ込めばアリが捕獲できることをチンパンジーが知っているのは間違いないのではないか。これを「単に信念を持っているだけ」とみなすのではなく、これこそが「知識」の典型を考えるべきではないのか。しかし一方で、人間は正当化することによって知識を拡大してきたことも否定できない。

このように、外在主義者の直観は知識とは何かを説明するのに適しており、内在主義者の直観は正当化とは何かを説明するのに適している。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

 そこで外在主義者の一部は新たな提案をする。「知識に正当化は必要ない」と。

 信頼性主義は知識の古典的な定義に基づいたもので、知識に正当化を要求するが、もはやこの立場は知識観すら超えてしまう。このニュータイプの「知識」を具体的に形にした一つの例が、ドレツキによるものである。【定義】AさんがPということを知っている、というのは、AさんのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた、ということである。この定義の問題は「情報」であり、知識について論ずる前に情報について論じなければならない。そしてこれはシャノンの情報理論を参考にしながら条件付き確率という道具で定義される。結論からいえば、この知識論はあまりうまくいかない。

 さて、『アクセス可能な形で正当化を持てる認識主体の知識はそれができない主体に比べて高度な適応能力をもたらす』ことは間違いないにしても、アクセス可能であることを知識の要件に含めることはおかしい。正当化を持つことは、「よい」知識の条件とは言えるには違いないが、知識にとって本質的ではないのではないか ———このことを確認しておこう。

 

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 知識を「心のなか」から外に出す。信念→知識→よい知識ではなく、まず知識があり、信念となり、言葉という道具で結び付けられたりする。

『「どのような形で保持され使用されている情報が知識なのか」という問いが、「どのような条件を満たす信念が知識なのか」という伝統的な問いに代わる新しい問題になる。』