第二章 ゲティア問題とは何か
知識の標準分析によると、何かを知っているというのは「真であって」「信じていて」「正当化されている」ということだった。このことを否定するためには、①三つのうちのどれかが(あるいはすべてが)必要ないというプランと、②三つを満たしながら知識ではないものがある、ことを示すしかない。この二つ目のプランで知識の標準分析を批判することになったのが、ゲティア問題である。
<事例1>
スミス氏は就職競争をしているジョーンズについて次の命題が真だという十分な証拠を持っている。
- (P)就職するのはジョーンズ。かつ、ジョーンズはポケットに10枚コインを持っている。
もしこれが正しいなら、次も正しい。
- (Q)就職する人物はポケットに10枚コインを持っている。
ところが十分な証拠にもかかわらず、競争を勝ち抜くのは実はスミス氏のほうであった。しかも知らぬ間に彼のポケットには10枚のコインがあった……。
- Qは真である
- スミスはQが真だと信じている
- スミスはQが真であると信じることにおいて正当である。
だからスミスはQを知っていることになる。しかし一方で、たしかにQは真だがその根拠となるPが偽だったのだから、スミスがQを知っているとはいえないはずだ。
<事例2>
スミス氏は命題Pを信じる強い証拠を持っているとする。
- (P)ジョーンズはフォードの車を持っている。
スミス氏は友人ブラウンがどこにいるかしらないが、でたらめに次の命題をたててみた。
- (Q)Pまたはブラウンはボストンにいる。
- (R)Pまたはブラウンはバルセロナにいる。
- (S)Pまたはブラウンは日本にいる。
Pが真なのだからQ、R、Sはいずれも真であることをスミス氏は認める。ところがなんとジョーンズはフォードの車を実は持っていなかった。しかもブラウンはそのときバルセロナに滞在していた。
- Rは真である
- Rを信じている
- Rは正当化されている
だからスミスはRを知っていることになるが、スミスはRを知っているとは言えない。
ゲティア問題は、ゲティアという人物が提出したK=JTBに対する反論である。上記の反例においては二つのことが前提となっている。
- 信念要素と真理要素の分離 「Pが偽である かつ 主体がPを信じることにおいて正当化される」ということがありうる
- 正当化についての閉包原理 Pが正当化されP⇒Qを含意しているとき、主体SがQを演繹の結果として受け入れるなら、SはQを正当化したことになる。
スミス氏はどちらの事例においても事実とは異なるPをなんらかの証拠によって正当化している。それが可能なのも第一の前提があるからである。逆に言えば、「もうちょっといい感じの証拠探せよ」とスミス氏に文句をつけるのは、反論にならない。
むしろ反論として提示するなら、「知っていることになるけど、知っているとは言えない」というほうだろう。これは「知識の分析からすると知っているといえるけど、普通はこういうのを知っているとはいいませんよね」という意味である。しかし、その普通さはそこまで明らかなことなのだろうか。スミス氏のケースは知識ではあるのだが、例外的な知識なのではないだろうか―――ところが、このように知識という言葉の揺れに着目しても、上の事例が妙なものであることには変わりがなく、あまり影響を与えられない。
【対抗策:証拠の品質】
このゲティア問題に対して、さまざまな対抗策がとられた。
(No false lemmas)
知識の条件JTBのなかに、さらに条件「根拠に偽が含まれていない」を加える。
これをすればたしかに上の二つの事例は潰せる。しかしあまりにも対症療法的(アドホック)である。なにか問題が起きたからといって「それじゃあ」と簡単に条件を変更すると別の問題が生じてしまう場合がある。
- 事例:レンタルくん オフィスに「レンタルくん」と「オーナーくん」が入ってきた。レンタルくんはフォードの車から下りて来て、買ったばかりだと教えてくれたし、しかも所有証明書まで見せてくれた。彼は嘘をつくような人ではない。 (P)私はオフィスにいるレンタルくんがフォードを所有している と信じることが正当化される。 すなわち (Q)私のオフィスにいるだれかがフォードを所有している も成り立つだろう。私はQを信じることにおいても完全に正当化される。 だが! レンタルくんの野郎は私を騙していた……。実はフォードを持っているのはオーナーくんなのだが、私はまったくそれを知らない。
- するとシン・知識条件によると、Qは知識にはならない。これでよさそうに思える。しかし、
- 事例:レンタルくんとオーナーくん 今度はレンタルくんとともに、オーナーくんもフォードを持っていることが十分な証拠とともに正当化されているとする(P2)。そうすると、先ほどの(Q)は知識になるだろう。
- 一般的にいって、複数の十分な証拠があるとき、そこに多少の偽が混入していても結論として得られた信念は知識になるように思われる。シン・知識条件は少々強すぎるようだ。
たとえば草原に牛がいたとしよう。それはどっからどう見ても牛なのである。そこであなたは「あの草原に動物がいた」と考える。しかしあとになって調べると、それは牛ではなく、馬だった。ところが、「あの草原に動物がいた」というのは、ふつう、知識と認められはしないだろうか?