第三章 因果説による対応――外在主義その1
ゲティア事例で目立つのは、通常ではありえない偶然がはたらいていることである。知識というからには「たまたま当たった」というようなことがあってはならないはずではないか?———この点を指摘したのがピーター・アンガーである。彼は知識から偶然を排することを提案し、一定の評価を得た。
しかし問題は何が「偶然」なのかを規定するのが難しいことにある。知識から排除されるべき偶然とはいったいなんなのだろうか。
知識の因果説
<知識の因果説>(アルヴィン・ゴールドマン)
SがPを知っているのは、Pという事実がSがPと信じることに適切なしかたで因果的に結びついているときであり、かつそのときに限る。
知識を生みだす因果プロセスは、少なくとも以下のものを含む。
- 知覚
- 記憶
- 推論によって正しく再構成された因果連鎖
- これらの組み合わせ
この理論は強力である。
- P:この火山が噴火したという事実
- Q:ここに溶岩があるという事実
- R:溶岩などに対する背景的な諸事実(溶岩は火山から出てくる、溶岩が固まるには時間がかかる、など)
- Bs(・):Sが・を信じている
としよう。もしPならばQが起こる。
いま主体SはQという事実を見た。これによってBs(Q)が正当化される。そしてBs(Q)と溶岩に関するいろいろの考えBs(R)を併せ考えると、Bs(P)が正当化される。
ここでもしSが見ている溶岩が他の山から運び込まれたものだったとしよう。そして、実は噴火があったのはこの山ではなくその別の山である。ゲティア問題は、このときにBs(P)が知識になるのはおかしいという話だったのだが、知識の因果説ではそうはならない。*1
なぜそうはならないのかというと、P→Q→Bs(Q)→[Bs(R)]→Bs(P)という流れが断ち切られているからである。具体的にはP→Qが成立していない。
また、知識の因果説はどうやって正当化したのかをいちいち覚えていなくても知識だと言ってしまえる。たとえば1600年に関ヶ原の戦いがあったと教科書で見たとしよう。そしてその記述は実際に関ヶ原の戦いがあったからだ、と推論したものとする。しかしあなたはそれをすっかり忘れてしまい、1600年関ヶ原とか覚えていない。それでも「知っている」といえるのは、それは記憶に保存されているからである。思い出せないとしても。
ところが問題点もある。たとえばあなたが「この音って””ミ””でしょ」と言ったとする。そして実際それはミの音だった。しかしあなたは普段、ドレミファの問題を出されるとほぼ間違っているとしよう。それでも「その音がミであることをあなたは知っていた」といえるのだろうか。
つまりこの理論は知識を生みだす因果連鎖とそうではない因果連鎖(〈逸脱因果〉)を区別できていない。
*1:Qは偽だとしても、Sの中では正当化されている。だから同じようにBs(R)を用いて、Bs(P)を正当化することができるのである。