にんじんブログ

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にんじんと読む「『健康』から生活をまもる(大脇幸志郎)」🥕

 

 新型コロナウイルスをみてもわかるように、『ウイルスそのものよりもはるかに強く、ウイルスが連れてきた社会の混乱にこそ苦しめられている』(「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信)。治療薬やワクチンの進歩はわたしたち一般人にはどうしようもないことだが、パニックに免疫をつけることは可能なはずだ。つまり敵の正体を知り抜き、迷信をあばき、向き合う方法を学ぶことだ。コロナだけではない。ちまたには健康情報が溢れかえっている。みんな「これがいい」というものがあるが、なぜいいのかはたいてい誰も知らない。「適度の飲酒は体にいい」? 適度の飲酒ってなんだよ! 健康のためだったら酒は一滴も飲まない方がいいに決まっている。

 しかし私たちは健康のために生きているのではない。「酒は健康にいいか、わるいか」なんて問題を判定しなければならない、などと考えていること自体が既にひとつの迷信なのだ。「健康のためです」といわれればナルホドと思ってしまう。

 人は健康より大事なものをもっていて、そのために体を壊す。そんなことは当たり前だ。というか、健康はそのためにあるのだ!

 

痛風、尿酸、プリン体

 プリン体は体に悪いらしい。それは尿酸に変わり、痛風の原因になる。だからプリン体は減らそう。しかしちょっと待て。本当にそうだろうか。

 まず確認しておきたいのは、ビールにはプリン体はごくわずかしか含まれない。重量あたりのプリン体の量は肉や魚のほうが十倍多い。でも魚を食べていると健康的だねと言われる。どうなってるんだ。しかもプリン体はわざわざ食わなくても体内で生成されている。しかも口から入って来るより数倍の量が生成されている。

 というわけでプリン体については一旦忘れよう。ビールがどうだのなんだの、誤差レベルだ。「問題は尿酸なのよ」ということになってくる。「アルコールは間違いなく尿酸を体にためこむ作用があるのだから、ビールなんて飲んじゃ駄目」と来る。正直、実際のところ、アルコールを飲むと痛風に至る可能性はある――――ただし、確率は低い。だったら別にならないほうに賭けたっていいじゃないか

 おっと、ここで血液検査の登場だ。医者があなたの目の前にきて「おや、尿酸値が高いですね。酒は控えてください」といってくる。これはもう駄目かもしれない。しかしそんなことはない。禁酒すると痛風が減る証拠はなく、食べ物を変えても痛風が減る証拠はない

 いや、ちょっと待て。証拠はないかもしれないがやめたほうがいいんじゃないか。しかしこれを言い出すと、雨ごいをしたほうが何もやらないよりマシだろう、という理屈も認めなければならなくなる。よし、飲み続けよう!

 ところが残念なことに、医者は「尿酸値を下げましょう。お薬を出しておきます」と言ってくる。ちょっと待て、防ぎたいのは痛風じゃなかったのか? 薬によって是正できるのは尿酸値だけで、痛風の予防にはならない。「え! 尿酸値が高いと痛風になるのでは?」ところが、尿酸値が高い以外に持病がなく痛風になったこともない人がお薬を飲んだときにはじめての痛風が防げる、なんてデータはない。日本のガイドラインには尿酸値が高いだけで薬を出すのは慎重になるべきだという意味のことが書いてある。医者に言われたらこう答えよう。「でも先生、ぼくは痛風になったことがありません」

 

 薬で痛風を防げるというのは迷信である。しかし薬はカスだというのもやはり迷信にすぎない。実のところ尿酸値を下げる薬には副作用があって、なかには死亡リスクさえある。どんな薬にも副作用があり、使用リスクがある。どうも酒を飲むということのリスクばかり強調されるが、薬だって相応のリスクはある。どっちのリスクをとるかだ。

  • 酒を飲む? 飲まない? → 飲むリスクあり!
  • 尿酸値が高いよ! 薬を飲む?飲まない? → 飲んでも飲まなくてもリスクあり!

 酒は飲まないほうがよいのは、飲まなければ酒のリスクがないからだ。ただし、当たり前のように、酒を飲まなければ酒は飲めない。賭けるか、賭けないか?

 

 

 

「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信

「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信

 

 

タバコ、酒、次の標的

 お次は「タバコ」である。吸わない方がいい。当たり前だ。

 しかし、吸いたい人もいる。これも当たり前だ。彼らは肺がんのリスクを重々承知で吸っている。でもちょっと待った。たばこを吸うと肺がんになるのか? 本当に? かつての日本は喫煙に寛容な国だった。未成年者の喫煙が禁止されたのは明治33年であり、1966年には成人男性の83.7%が喫煙者だった。しかしその頃には既に日本人の平均寿命は先進諸国と遜色なく、1975年頃からはトップクラスだった。喫煙者が世界の平均程度まで少なくなってきたのは2010年以降のこと。で、その結果、平均寿命は頭ひとつ抜きんでたかと言うと、まったくそんなことはなかった

 たばこの害はその他のリスクを考えると大したものではない。それより先に高齢者がモチを食うことを禁止したほうがいいだろう。お酒もそうだ。健康を考えるならあんなもん飲まないほうがいい。しかし、飲酒運転をなんとかしたほうが死亡率は減る。タバコと酒をリスク承知で吸うのは、文化的側面もある。嫌なことを忘れたかったりもする。ていうか別に理由はなんでもいい。飲みたい奴は飲め、吸いたい奴は吸え、そういうものじゃなかったか?

 ちょっと待った。お酒よりもタバコのほうが睨まれるにはワケがある。そう、受動喫煙である。喫煙のリスクがたかが知れていることを理解しても、受動喫煙は鬱陶しがられる。なにしろくっせえし、ヤニくせえし、ともかくクサいしで、つまりはクサい。あとケムたい。たしかにその通り(本当にクサいです)。だが喫煙が許されないことにはならない。たとえば酒を飲むひとは同じようにクサいし、絡んでくる。スポーツカーはやかましいし、某アニメキャラは野球をしていてすぐに人の家の窓を割る。趣味が料理のマダムが食中毒を出したり、インスタ映えを狙ってゴミ問題を起こしたり、喫煙と同じぐらい鬱陶しいものはこの世にいくらでもある。が、そうしたものは禁止されていない。なぜタバコという娯楽だけがここまで文句を言われなきゃいけないのか。こうなったのは最近のことである。酒飲みのあなた。たぶん次の標的はお酒ですよ。

 「タバコ」「酒」ときたら、次は「砂糖」かもしれない。甘いものは体に悪い! パクついていたらあっという間に肥満だ。肥満っていうのはデブのことじゃない。肥満というのはBMIという数値によって判定される。ありがたいことに、日本は2016年の時点でBMI30オーバーは全人口の4.4%しかいない。でもみんな肥満を気にしている。それはやっぱり太っているのが嫌だから? たぶん、そうなんだろう。いくらアメリカ人の肥満よりかはマシだよといったって、デブに見られちゃ困るというわけだ。そういう人はダイエットに励む。甘いものを我慢して。それもいいだろう。あなたがいいと思うならば!

 ほかにもある。これは推奨されているもので、「運動」という。運動は体にいいらしい。でも嫌いな人だっている。当たり前だ! それからスポーツをやることが体に負担をかける。けがもする。「でも運動をすると素晴らしい経験ができます」それは正しいが、明らかに医学の問題ではない。つまりなにがいいたいか。

人の指図は要らない。一事が万事、私たちには自由に生きて不健康になる権利がある。

ナッツはやせる。赤肉と加工肉は大腸がんを増やす。トランス脂肪酸は心血管疾患を増やす。

そんな話はすべて、事実の半分にすぎない。

「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信

  赤肉食べても大腸がんにならなかった人はいる。それより食生活に気遣ってウンウンいってるほうが負担だ。健康を気にすることは生活のあらゆる面を監視することだ。都合のいい面ばかりとりあげて、あたかも世のため人のためになるみたいな顔をしている。

 健康のために生活に気をつけなければいけないという考えは、迷信だ。

「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信

 

健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

 

 

ゲーム障害、アスペルガー症候群うつ病

 体のほうはともかく、心はどうだろう。現代人は疲れるので、あんまりひどいと精神科を受診したりもする。とはいえ、「正常です」と言われる場合もあったりして、「え、おれ病気じゃないの」と驚くこともあるだろう。心を分類するのはたいへん難しい仕事だ。

 ゲームをやりすぎるのも、「行き過ぎると」病気になる。課金しすぎて生活が破綻するとか、指の腱がちぎれるとか、まぁ異常だろう。そういうヤバすぎる事例ならばともかく、自分が単なるゲーム好きなのか病気なのかどうやって見極めるというのだろう。その人としては「きみ、ゲーム障害ですね」と言われて「は? 好きなだけだが……」となるだろう。病気ゆえの抵抗なのか、ふつうに抵抗しているのか。というか、その人としてはゲームで生活が破綻してもいいと思っているのかもしれない。

 そもそも「ゲーム」ってなんなのか。この理屈でいけば、この世のありとあらゆることは病気にできる。私たちは数百種類の病気をもっているのかしらないが、日常生活は普通に送れるのである。それじゃあ、病気っていったいなんなのか。だいたい、社会関係がうまくいかないとか、限定的な強い関心とかいうのが、そこまで異常なのだろうか。ちょっと調べればあなたは自分がなんらかの精神病を持っている可能性があることに行きあたるだろう。もちろん人とうまく話せなくて困っている人はいるが、その病名があるとかないとかで解決するわけではない。というか、たとえば「あなたうつ病ですね」と診断されることが、果たしていいことなのか? よかったね、発見できて?

 過労で心が苦しくなってくる。休みたい。が、休めない。苦しい。お医者さん助けて―――ちょっと待て。「休めない」ほうがおかしいだろう。そっちをなんとかすべきでは? 休むための理由としてお医者さんが「あなたうつ病ですね」なんて言ってくれる必要があるんだろう。それじゃ、うつ病という言葉は本質的ではない。うつと非うつの境界線はたいへんあいまいだ。

病気が客観的で確かなものだと思うのは迷信だ。

「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信

  「病名はなにか、診断のポイントは?」なんて、その人の悩みとはなんの関係もない。必要なのはその人をよく見てくれる人だ。助けてくれる人だ。そしてそれは、医師である必要はまったくない。なにしろ、彼らは特別有力な方法を持っているわけではないからだ。

 

生きる意味―「システム」「責任」「生命」への批判

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱病院化社会―医療の限界 (晶文社クラシックス)