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にんじんと読む「笑いの哲学(木村覚)」🥕 ②

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 だが、考えてみれば笑われるのがいつも嫌なわけではない。芸人でなくとも、笑ってほしいときがある。たとえば朝ぼうっとしているときに冷蔵庫にリモコンを入れてしまったら「この前ぼけっとしててさぁ」などと言いたくなる。間抜けになるのだから黙っておけばいいのに、なぜ自ら笑われにいくのだろう。

 その人にとって、誰かとそのことを笑うほうが楽なのである。階段で転んだときも「実は前さあ」といって笑い合いたいものだ。そこでむしろ相手が真面目になって、ぴくりとも笑わずに、「大丈夫……?」と心配されたらむしろ困るだろう。『心底同情されてしまうと、自分の「間抜け」がどうしようもなく自分から切りはなせないものになってしまう』のだ。

 

 さて、そうなってくると「おい、ハゲ」と言われたときとの差が目立ってくる。冷蔵庫にリモコンを放り込む間抜けは自分から開陳するわりに、気にしているハゲを指摘されて怒りたくなるのは何故なのか。

ハゲを生きる―外見と男らしさの社会学

 須永はハゲの男性はダブルバインドの状態にあると指摘する。ハゲは恥ずかしいと社会が暗黙のメッセージを送ってくるにも関わらず、恥ずかしがっているのは情けないという。しかもどこまで薄ければハゲなのか明確ではない。ハゲを気にするような状況に追い込んでおきながら、恥ずかしがれば情けないとされ無視すれば冗談がわからない奴だとされる。

 アンガールズの田中はラジオにおいて、いじりを受けた場合の対処方法を相談されてこう答えている。

今のこういうの見てて思ったけど、芸人の世界の方がまだ生きやすいよね。一般社会って、例えてくる人も素人じゃん、だからわけわかんないこと言われてんじゃん、そこでうまく返すのって至難の業だし、お金も発生してないから、やる気もないし。

 芸人のいじりが一般社会に広まったのだろうが、二つには違いがある。つまりは下手くそなのだ。技術もないうえに、それがお遊びであることを理解もしていないので、みんなが面白い「お笑い」を作ることができない。しかも対価がない。

 また、芸人の場合、いじるほうもいじられるほうも目的は笑いなので、いわば共同作業である。が、一般人はマウントのためにこれを使う。笑われるものが示した優劣関係を是認するために笑うのである。「笑いの空間」のためには、良好な関係がなければならない。

 

 

 毒蝮三太夫は客のことを「ババア」と呼ぶことがある。彼が暮らした下町の長屋ではご近所づきあいは「まだくたばってねえのか」が日常の挨拶だった。ババアは蔑んでいるのではなく、相手との距離を近づける一つの作法である。毒蝮は「かまい合い」が成立している場を「快適空間」と名づける。

 これはババアの使用を禁止して安全な空間を作ろうとするのとは異なる仕方で、リラックスを与える。笑われることは包摂の機能を果たし、いじりは親しみのニュアンスを帯びる。すると「かまい合い」が発生するためにはある程度信頼が必要になって来る。だが、その「かまい合い」は決してコミュニケーションの範囲を超えない。毒蝮はその距離を意識している。

また「かまい合い」って言葉を出すんだけど、オレはそのかまい合いの範囲を決して越えるつもりはない。だから、仮にオレと握手したからって、あんたの気が休まるだけで、別に幸せになれるわけじゃないですよ、と諭す。当たり前だよな、本当の幸せは自分でつかむしかないんだ。世の中の流れも影響してるのかね。一人暮らしの人間が増えて、「かまい合い」がなくなった分、孤独に悩んでいたりすると、もう宗教の教祖様みたいなものにすがりたくなるのかもしれない。自分で考えなくても、そっち側が幸せをワンセットで全部揃えてくれるような錯覚に陥るんだ。

 

  優越の笑いの危うさは、それが架空の優劣orステレオタイプ・レッテルを用いているところにある。押された烙印と「笑われた者」の付き合い、つまりその烙印からどれぐらい自由になるかでそこがどんな空間になるのかが決まって来る。もちろんその付き合いは、「笑われる者」だけの問題ではない。うまい芸人は「笑われる者」が「笑う者」にもなれるような空間をコーディネートする。烙印と距離をとれるようにしてくれる。

 だがもしすべての笑いがこのような烙印に縛られているとすれば、単なる差別に陥りかねない危うさから自由になりはしないことになる。

 

 だが私たちには、「優越の笑い」のほかに、「不一致の笑い」がある。