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にんじんと読む「笑いの哲学(木村覚)」🥕 ①

 トマス・ホッブスは『リヴァイアサン』において、「とつぜんの得意は、笑いと呼ばれる顔のゆがみをおこさせる情念」だといい、「他人の欠陥についておおいに笑うことは、小心のしるし」であると言った。階段で転んだ人を見てあなたが笑うのは、「馬鹿だなあ」という自分も転ぶ存在であるということを棚上げにした優越の笑いであるという診断である。笑いとは嘲笑に近い、といっているようなものだ。

笑いと嘲り―ユーモアのダークサイド

 マイケル・ビリックが上掲本で「だから笑いに満ちた社会は楽しいところではない」とホッブスの論を受けて書く。この笑いに対するネガティブさから、笑いの研究は出発する。

 

 ところで、お笑い芸人のハリセンボン・近藤春菜は「角野卓造じゃねえよ」と怒る定番のネタを持っているが、アーティストのアリアナ・グランデと共演した時、「似てはいない」「かわいらしいですよ」と言われてしまった。これに対し、さすがアリアナ・グランデ、ポリティカルコレクトネスの姿勢を教えてくれた、と賞賛する声があがった。だが、芸人潰しだという意見も出た。私たちは笑ってはいけないのだろうか。たしかに、日本のお笑い番組を見ていると、デブやブスを相当いじる。だが芸人はそれがオイシイから出ている。この問題をじっくり考えてみなければならない。

ダウンタウン浜田雅功が年末の特番で、黒塗りメイクをしたときはたいへん問題になったが、このことも関係するような感じがする。誰も黒人のことを馬鹿にはしていないし、スタッフにその意図がないのも明らかだが、それを笑いにすることの背後には差別意識が控えているというのである。そういうものを禁じて「笑われている人」に「安心空間」をお届けすると、「笑いの空間」が消え失せる。―――だがたしかに、イジメなど、本人を馬鹿にする意図がある笑いの場合もある。このあたりが難しい。

 

 さて、ホッブスの優越の笑いを引き継いだかのように、優越の観点で笑いを分析したのがアンリ・ベルクソンである。彼によれば、『社会が求める私たちのなすべきふるまいが失調し、人間が機械の見せるようなぎこちなさをあらわにする』とき、人は笑うのだ。つまり、笑われている人はとある「枠」にはめられる。たとえばデブだとか間抜けだとか、そういう「タイプ」である。

 ホッブスの場合は、転んだ人間を笑うのは転んだ当人を笑うことだったが、ベルクソンの場合は、転ぶことによって生じた「間抜け」を笑っているというところが異なる。笑いが起きるのは、「中心」からはずれたときだ。それは逆に、笑うほうが「中心」を規定していることでもある。東京の人間が埼玉を馬鹿にするようなもので、エスニック・ジョークなどにおいても、ジョークの語り手は標的を「自分自身の愚かしいヴァージョン」として捉えている。

 このような笑いの見方からはPC(ポリティカルコレクトネス)の立場から批判を受けるのは当然である。

 

 私たちはなんにしても「優越の笑い」などで笑われたくないと思っている。誰だって間抜けだと思われたいわけがない。笑われるときに自分がなっているところの「枠」というのはたいてい「カッコワルイ」ものなのだから。しかしこの点は少々注意を要する。「枠」=「カッコワルイもの」というわけではない。たとえば「お前、女子アナかよ!」と言って笑うことはありうる。

 ベルクソンの笑いは、誰かが突然に「枠」にハマってしまうことがおもしろいのだ。しかしもちろん、たいていは「当てはめられたくない枠」で笑われるのだが……。

 

 お笑い芸人のいとうあさこは『イッテQ』で「ババア」と言われるのが定番であるが、これに女性ライターが嚙みついた。いくらなんでもこの年頃の女性をババアはどうなのよということである。「いやいや、ネタだろ」派と「たしかにそうだ」派がここでもぶつかりあう。

 マイクロアグレッションとは、ほんの些細な攻撃性という意味だが、つまり悪意の自覚がないということである。自覚なき差別。つまりブスをブスだといって笑うのはいくらネタだといっても、そこには差別感情が隠れているのだということだ。この概念は「攻撃の意図があったか」ではなく「被害者による行為の解釈」に重点が置かれる。飛行機で座席を替えてくれるように頼まれ、「私が黒人だからでしょう!」と詰め寄るエピソードもある。

 私たちは自分たちのどの行為が差別的に解釈されてしまうのか、知る必要に迫られる。しかしこれは非常に難しい。「出身はどちらですか?」など、たとえアメリカ国内であってもアジア系アメリカ人に訊くと「お前は真のアメリカ人ではない」などという攻撃性が読み取られてしまう。それに問題はほかにもあって、「この人はアジア系アメリカ人だからこの質問をすると差別だな」と先回りをすると、そのステレオタイプを是認してしまうことになるのだ

 安全な空間を与えようとすると、その人だって「自分は被害者だ」という意識を頑なにする。加害者だとされるひとも、その人を余計にステレオタイプに見る。『この自縄自縛から脱出する方法はないのか』(笑いの哲学 (講談社選書メチエ))。

 

 そもそもマイクロアグレッションの被害者は、そのステレオタイプ自体を内面化してしまっている。つまり固定された価値観を、自分の価値観にもしてしまっている。『ちびクロサンボ』で黒人が傷ついたのは「黒い肌はマイナス」と思っている黒人の美意識によるのではないかと指摘するのはちびくろサンボよすこやかによみがえれである。問題はこの思考傾向のほうではないか? 認知療法においては「レッテル貼り」は認知の歪みの因子であり、単なる心の傾向というだけでは済まされないところがある。

 こうしてみると、ベルクソンの笑いには、レッテル貼りをやめて自己評価を高めることを阻害する側面もある。―――私たちはやはり笑ってはいけないのか?

 

 

笑いの哲学 (講談社選書メチエ)

笑いの哲学 (講談社選書メチエ)

  • 作者:木村 覚
  • 発売日: 2020/07/10
  • メディア: 単行本