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にんじんと読む「言葉を使う動物たち(エヴァ・メイヤー)」🥕

 新刊です!(2020.5.8初版)

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記念撮影(南極にて)

私は哲学を学んでいたときに、伝統的な西洋哲学には動物がほぼ完全に不在であることに驚きました。思考は、人間のための人間についての活動として認識されてきたのです。けれども、今はそれが変化しつつあります。(まえがき)

 

 

序論

 あの動物はなんとかという単語を知っている――――。

 われわれはこの言葉を疑わしいと感じる。「ほんとに?」……つまりこういうことだ。《人間以外の動物のコミュニケーションは、「言葉」と呼べるだろうか?》 われわれは《動物と話ができるのだろうか?》《人間の言葉は特別なのか?》《あらゆる言葉は動物ごとに特有のものだろうか?》いや、そもそも《言葉とはなんだろうか?》

 

  •  昔から、人間は動物の知能を人間の観点から把握してきた。「あの猿ってこのパズル解ける?」しかしハトからすれば人間は空間認知が苦手だし、アリからすれば人間は協調性に欠ける。イヌからすれば人間は鼻が悪い。今では知能というのは、「種固有の課題を扱う能力」である。それぞれの動物にはそれぞれの生活の環境があり、身体能力や認知能力はそれに裏付けられる。クジラはコミュニケーションに音を使うのだが、それは海の中では音や匂いが役に立たないからだ。
  •  言語に関する研究を言語で行わざるを得ないことは、ウィトゲンシュタインがいうように「指でクモの巣のほころびを修繕する」ようなものである。要するにめちゃくちゃ難しい。たとえば動物なんて言葉を使ってしまうと、まるで人と動物の間に画然たる区別があるように思えてしまう。「あれは動物、これは動物、動物、動物……いや、あれは人間だ」よくよく注意しなければならない。注意:人間中心主義!
  •  動物について考えることは動物についての処遇を改善したり仲良くなったりすることにもつながるが、あきらかなように、どの動物とも仲良くなれるわけではない。すべての人間と仲良しでいられるわけではないように。
  •  言葉は人間特有のものだと考えられてきた。ハイデガーに至っては動物は「世界貧乏的」だといっている。デカルトは動物には魂がないといった。まぁ魂自体怪しい概念だが、あの時代の人々にとって魂がないなんて言わせれば動物に対する処遇もそれに応じてくる。

 

言葉を使う動物たち

言葉を使う動物たち

 

 

第一章 人間の言葉で話す

 言葉を話す動物で一番に思いつくのが「オウム」である。いわゆるオウム返し。これまでこのオウム返しというのはただ音真似をするだけだと思われていた。コンニチハとは言うが、まぁそれだけで、夜だろうが朝だろうがコンニチハだ。

 1978年心理学者のペッパーバーグは、オウムが言葉を学習するのかを知りたがった。そこで言葉を欲求と結びつけ、オウムがたとえば「メシ!」といったときは飯が出て休みたいときに「キュウケイ!」というようにしつけた。他にも物体の名前を記憶させ、オウムが希望を言えるようにすることまでに発展し、単語はついに150を数えた。要するにそのオウム・アレックスくんは単語の組み合わせができるようになったわけだ――――オウムはモノマネ以上のことをする。コンニチハという挨拶だって昼に使うものだということを覚えることだってある。

  このほかにもゴリラやチンパンジー、ゾウ等々さまざまな動物たちの言語使用は観察される。

 

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ゾウ

 しかし一体、言語とはなんだろうか。それを理解するためには、その働き方を学ばなければならない。それがどのような状況で使用されたかを研究しなければならない。古来から、「言語とは〇〇だ!」と述べたくなる衝動に哲学者は駆られてきた。しかしウィトゲンシュタインによれば、それはまちがいなのだ。

 たとえばチェスはゲームであり、将棋はゲームである。ふたつはともにゲームと呼ばれる。サイコロを振って大きい目が出たほうが勝ちとするのもゲームであるし、時には勝敗がないようなゲームというものもあるだろう。われわれはそれらすべてを『ゲーム』と呼ぶ。だが、すべてのゲームに共通する特徴などというものがあるのだろうか? たしかに将棋とチェスは似通っているが、オセロとは少し異なっている。オセロと将棋にも似た点があるかもしれないが、たとえば射的とはずいぶん違う――――言語もこれと似ているのだ。あれも言語、これも言語だが、それに共通するものはじつはぼんやりしている。ウィトゲンシュタインが〈言語ゲーム〉という言葉を使う時、われわれがいつもゲームをしているということを言いたいのではなく、言語の概念がゲームの概念と似ていることを言いたいのである。

 言語ゲームは、単に言葉だけではなく、身振りや姿勢、動きまでを広く対象とする。言葉を使わなくても、 たとえば大きく手を振ったりすることで言いたいことを相手に伝えることができる。人間とほかの動物とのあいだの言語ゲームが成立することは、オウムのアレックスくんによっても示されていると思える。言葉が意味を獲得するのはわたしたちが頭の中でそれに意味を付与したからではない。言葉の実際に使用によって、それは意味を得たのだ――――いや、ちょっと待て。私は「このつもりで」この言葉を言ったのだが、ということのなんと多いことか。たとえばあなたが〈ビビズズ〉ということばを感謝するときに使うことだと決めたとしても、それは意味を与えたことにはならない。ビビズズなどといきなり人に言っても通じない。言葉は本質的社会的現象である。ウィトゲンシュタインのこの主張によって、《動物はそもそも言葉を持つのだろうか?》という疑問に新たな光が当たる。

  テーブルを指さして「テーブル」と呼ぶ。電信柱を指して「電信柱」と呼ぶ。もちろんこの言葉はこれだけの意味しか持たないわけではない。突っ立ってるだけで何もしない長身の人間は全員「電信柱」と呼ばれる危険がある。しかし模倣→比喩だからといって、単語を指し示すやり方が基礎的だというわけではない。最初に何もしないノッポ野郎を「電信柱」と呼ぶことを教わることだってあるだろう。

 音声を模倣できる哺乳類は現在観察されているだけで五種類いる。人間、コウモリ、ゾウ、アザラシ、クジラ。シャチはイルカの音声を模倣し、イルカと意思疎通することがある。彼らは「話す」。問題は、言語とはそれが模倣にとどまらないことだ

 

 

 

第二章 生き物の世界の会話

 警戒音や挨拶は生き物のコミュニケーションとしてわかりやすい。動物が近づいてくる外敵を発見して泣き喚くとき、われわれ人間には「逃げろ!」「助けて!」「ギャー!」といったように聞こえる。しかしながら、実のところその内容はもっと複雑な内容をつたえているのだが。たとえばイヌはほかのイヌの唸り声が何を意味しているのかを理解している。食べ物を守っているのか、侵入者を阻止しているのか。しかし人間にはふつうそのニュアンスがわからない。しっぽを振っていればイヌは喜んでいると考えられているが、よくよく観察してみると、機嫌がいいときと悪いときでしっぽの振り方が違う。イヌはほかのイヌのしっぽの振り方がやばいと感じると、一気に緊張する。

 カツオドリはパートナーが帰ってくると頭を首をお互いに擦り合わせて挨拶をする。また巣の飾りを持って帰ったり、プレゼントを持って来ることもある。鳥類には相手が何をしたら喜ぶかを察することができる。

 そしてイルカはそれぞれの名前を持つ。そうすると当然予想されるように、新入りのイルカに自己紹介をすることがあるわけだ。とはいえ、中立的に述べるなら、「自分の名前」かどうかはわからないはずだと思う。「俺は大工。こっちは医者」というような自己紹介かもしれない。本では名前だと言い切っているところをみると集団の全員に固有の名称があるのかもしれないが。/そのほか、多くの動物は糞尿のにおいでお互いを識別する。オオカミはにおいはもちろん、声でもお互いを判別する。

 人間の描く動物の世界は血にまみれているが、そもそも犬がウーと唸るのは敵を追い払うためのものであって衝突するためではない。動物たちにとって、怪我をしたらそれはほぼ死を意味する。自然治癒しない怪我は動物たちには治しようがないからだ。

 

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サル

 さて、動物は本当に言語など使っているのだろうか?「だってほら、動物がやってるのはコミュニケーションであって、言語ではないんじゃないの」つまりこういうわけだ。「送り手」「受け手」「シグナル」の三つによる閉じた系がコミュニケーションであり、動物は反応しているだけなのでは?

 1960年代に言語学者のチャールズ・ホケットは、ある言語が、言語であるために満たさなければならない基準13項目をあげた。

  1.  情報の発信と受信のための感覚システムがある
  2.  シグナルを広範囲に発信することと発信されたシグナルを受信することができる
  3.  シグナルを出したら素早く消えて、新たなシグナルが伝えられる
  4.  同じ種の中で互いのシグナルを理解できる
  5.  自分の発するシグナルが聞こえる
  6.  情報伝達専用のシステムである
  7.  言葉に意味がある
  8.  何を指す言葉でも、もともと言葉がそれの指すものに必然的な結びつきはなく、抽象的な記号である
  9.  言語は、分離したユニットの集まりで作られる
  10.  言語は意味を持つ言葉と、意味を持たない音節という二つのレベルでできている
  11.  新たな言葉を作り出せる
  12.  文化の伝達や世代間の伝達(伝統)がある
  13.  別の場所や違う時間に起きた出来事についての情報が伝えられる

 1~6については簡単だが、それ以降が難しい。

 

 また、マッキンタイアは言語がもっている特徴を五つ挙げているからそちらも参考にしておこう。

 

 ヒトの持つ言語の特徴は、

  1.  一群の単語や、一群の言い回しを備えている。話し手たちは音素を共有することで様々な言い回しをお互いに識別可能なしかたで発音し、ときとして一群の筆記記号も有している。語彙
  2.  文を形成するためにさまざまな言い回しをどのように組み合わせるべきかに関する一連のルールを備えている。統語論
  3.  言い回しにはさまざまなタイプ(名詞・確定記述・述語・数量詞・文脈依存指示語・論理結合子等々)がある。そして名詞をその指示対象に、述語をそれが指示する事物の性質に、文脈依存指示語(イマ、ココ等々)をそれらが指示する特定のものに対応することが理解されている。意味論
  4.  種々の言語行為(主張する、問いを発する等々)を、種々の文を用いつつ実践することができ、どのような文脈において適切に使用されうるかを理解できる。言語行為の遂行
  5.  言語行為によってある一定のタイプの言語的課題を遂行できる。つまり、言語行為における種々の文の使用が、ある理解可能な目的に資するものでなければならない。すなわち、その行為者の置かれた状況や抱いている目的、ならびに社会的文脈の双方に照らして理解可能な目的に資するものでなければならない。社会的実践への埋め込み

(三度目!)にんじんと読む「依存的な理性的動物」🥕 - にんじんブログ

 

 どちらにおいても、動物が言語をもつのだというはっきりとした証拠はない。しかしわれわれが思っている以上に、動物は非常に複雑な方法でコミュニケーションをとっており、もはや言語相当である、とは少なくともいえるだろう。

 

 

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 

第三章 動物とともに生きる

 イヌはたいへん賢い。ボーダーコリーのチェイサーくんは三年間の特訓で1022個の単語を覚えた。要求に応じておもちゃを持って来るし、ボールはボール、人形は人形と分類することもできる。やがてチェイサーくんは文法にも挑戦し、キリンをヒョウのところへ運ぶように指示されてそれを理解するようになった。

 イヌと人間の関係は深い。言葉はほかの動物と共有した世界を作ることもできるのである。けれどもちろん、イヌは人間と同じように理解するわけではない。人間は視覚で、犬は嗅覚で世界の地図を作る。人間とイヌのあいだではじまる新たな言語ゲームはお互いの世界を充実させ、よりいっそう複雑なゲームに進むこともできる。

 人間とほかの動物は、ある特定の社会的環境にうまれる。この環境が私たちを形づくり、私たちはこの環境を形作る。私たちが環境を形作る方法のひとつが「言語」である。哲学者ハイデガーは言語と世界を等根源的なものとみなし、世界以前に言語はなく、言語以前に世界はないといった。ところが彼の場合は「動物には言語がないから世界もないね」という風にすすんでしまったのだが。

 

 〈家畜化〉とは、ある生物群が自分たちの利益のために別の生物群の繁殖に重大な影響を与えるという関係性である。人間はほかの動物種を家畜化しているが、その正確な時期や方法については諸説ある。家畜化された動物たちは人間たちの文化のなかに取り入れられる。現代を「人新世」といって、人間が全部決めちゃう時代だという人もいる。なんでもかんでも今や人間の文化のようにさえ思えるが、直撃してくる災害などに翻弄される人間たちはまだまだ大きな自然の中の一部にすぎない。

 

はるか昔の一五八〇年に、フランスの哲学者モンテーニュは、飼っているネコと遊ぶとき、自分がネコと遊んでいるのか、ネコが自分と遊んでいるのか、どちらなのかわからない、と書いている。はっきりしているのは、どちらのプレイヤーも遊ぶということ、これがゲームをするには欠かせないということだ。

言葉を使う動物たち

 

第四章 体で考える

 ノーム・チョムスキーがいうところによれば、人間は生まれつき言語のための固有の能力を備えている。言語に必要なのはこの普遍文法を表に出すことである。彼はさらに普遍文法は人間しか持たず、ほかの種にはないといった。しかしどこをどう調べても、普遍文法など見出すことができないので、これはあくまで理論的なものにとどまっている。とはいえ、残念なことに、人間が人間にしかないと思っているものはたいてい、他の動物にもある。

 思考は心のなかで起こるなにかだと考えられている。これによって心と体が分離するわけだが、これに異議を申し立てるのが「現象学」である。

 意識は志向性をもつ、つまり意識はいつも何かについての意識であり、いつも何かに焦点を合わせている。これが現象学の基礎である。だから思考はいつもその何かに結びついているわけだ。メルロー=ポンティは「思考は常に具現化される」といった。具現化されるというとややこしいが、つまり、基礎的なものはいつだって「体」だっていうことだ。

 たとえば知覚。これはまず身体的活動であって、認知的活動ではない。私たちが身体的な自己を作るのは、《感じる物体としての自分自身を感じられるという事実》によってである。たとえば右手で左手を触ってみよう。右手は接触する物体であり、そのときわれわれが感じられることは右手もまた感じることができる。たとえば言語。頭の中で何を言うかまとめてから話す、というのは普通のありかたではない。むしろ話しながら自分の「まとまった考え」とやらに向かっている。

 ウィトゲンシュタインは「ライオンが話せたとしても、われわれには彼らを理解できないだろう」と書いた。しかしこれはライオンとの意思疎通など不可能だといっているのではない。まったく未知の異なる文化にいる奴とコミュニケーションするのに言語だけでは不十分だといっているのだ。それはまるでまったく異国の地にいる人々のなかに投げ込まれたように。言語は生活のなかに根付いており、何か意味あることを言おうとするなら、その言語が実際に使われているときの活動を研究しなければならない。ライオンが理解できないのはわれわれがライオンのことをよくしらないからだ。

 

 

 

 

第五章 構造、文法、解読

 スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、言語の基礎構造「ラング」と実際に口にした言葉「パロール」を区別した。パロールはいつも移り変わっていくが、ラングは維持されて変わらない。もちろんラングを作り上げるのはパロールだし、パロールはラングを背景にして発声されるので、この二つは完全に切断することはできない。文法と単語の混じり合い、これが言語である。

 単語には「シニフィアン」と「シニフィエ」がある。シニフィアンとは「アヒル」のような文字、または音声など記号表現のことで、シニフィエは「アヒル」が言及する精神的概念のことを指す。マジのアヒルシニフィエではなく、あくまでアヒルという概念を指すことに注意を要する。ソシュールは単語が意味を獲得するのは言語の範囲内でのことで、記号がどのように関係しあっているのかをみるのが言語研究にとって肝要なことだといった。ソシュールの考えをもとに、すべてを規定する確固とした基本構造を目指す「構造主義」が一時期にぎわった。が、今は廃れている。見つからないからかもしれない。

 ウィトゲンシュタインもまた、意味のある言語使用は規則に縛られると考えた。しかし彼にとって「文法」とは言語を学び正しく使うための技術的指示という以上に、意味のある言語の使用法を示すものだった。たとえば鳥の鳴き声をさえずりなどによって研究するとその構造は把握できるのだが、意味がよくわからなくなる。しかしそこに文脈を加えると、意味を調べる道がひらける。鳥たちの交流を調べるのに音声を分類するだけでは不十分だということだ。

 また、ハチはダンスによって仲間と情報を共有する。円形ダンスで食料が近いことを示す。また8の字ダンスで食料の方向や距離などをつたえる。さらに多くのダンスをハチたちは持っていて、手伝いを寄こしたり、やめさせたり、巣作りに最適な場所を教えたり、調査したハチたちがどこが最適かについて審議することもある。コミュニティによってダンスには「方言」が見られることもわかっている。

 

哲学探究

哲学探究

 

 

第六章 メタコミュニケーション

 犬が上半身を低くしているのを見たことがあるだろうか。上半身を低くしているというよりケツだけ上げているという風に見える人もいるかもしれない。あの姿勢を「プレイボウ」という。遊びのポーズである。

 遊びの中でこれらの動物は、ふつうは意味の異なる状況(戦う、逃げる、攻撃する、性的アプローチをするなど)で起こる行動を利用して、それはそうではなく遊びであることを示すために、遊びのシグナルを使う。

言葉を使う動物たち

  このポーズに相手が気が付くと、遊びに誘われているものだと理解する。遊ぶ相手によっては彼らは自らにハンディキャップを課すこともある。鳥相手に全力でやるのはさすがにしないというわけだ。犬は相手を激しく叩いたり、時にはきつく噛み過ぎることもあるが、犬はやはりプレイボウで「すまん」を示したりする。と、同時に「まだ遊ぶぞ」という表現をしている。「(それについては)すまん。でもまだ遊ぼう」――――《動物は遊ぶことによって、群れにおける自分や仲間の強さや地位について学ぶのだ》。

 ブライアン・マッスミはすべての行動が創造的であるといっている。ウサギはいつも決まったパターンで逃げるわけではない。もちろんいきなり空を飛ぶことはできないが、右に行ったり左に行ったり時には隠れたりする。彼らは「アドリブ」するのだ。

 

 遊びと言語には強い結びつきがある。たとえばプレイボウのような姿勢は、自分たちの「言葉」の使い方についてのひとつのメッセージである。噛みつくことは犬にとって攻撃である。しかしプレイボウのある文脈においてはそれが「遊び」になる。人間の行う喜劇も到底笑える状況ではない場面設定があるが、文脈が異なるので可笑しいのだ。

 さらに遊びは倫理とも結びつく。社会的な決まりごとはある程度は遊びを通して決められ学習される。驚くことに、プレイボウが間違ったやり方で使われることはほとんどないのである。遊びたがっていた犬が遊びではなくマジで相手をボコり始めることはほとんどない。もしケンカをはじめてしまったなら、「あいつとは遊べねえわ」とばかりにまわりから疎外されるようになる。遊びを通して「俺はこの役」となることで他者の役割を担い、群れで受け入れられる方法を見定める。動物が倫理的に行動できないなどというのは間違っている。

 

 

 

言葉を使う動物たち

言葉を使う動物たち