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にんじんと読む「ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ(ラッセル・B・グッドマン)」🥕 第一章

第一章 プラグマティックな経験の諸相

ウィトゲンシュタインは、その生涯の最後の年にこう書いた――「つまり私は、まるでプラグマティズムのように聞こえることを言おうとしている。ここで私は、ある種の世界観(Weltanschauung)によって妨げられているのだ」と(OC,422)。

ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ――プラグマティズムの水脈

 ウィトゲンシュタインの第一の関心は、他の記事でも書いたように、言語的混乱の「治療」である。だからなにか特定の立場に彼が与することは恐らくないのだが、彼はこの引用のなかで、自分がプラグマティズムに与すると誤解されるのを心配している。

 まずウィトゲンシュタインのいう「プラグマティズム」を理解しよう。彼の著作である『確実性の問題(ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片)』において、こう書いている。

 

我々の知識は、ひとつの大きな体系をなしている。我々が個々の知識に認める価値は、この体系のなかでのみ成立するのである

「地球ははるか昔から存在していた、と我々は想定する」とか、それに類したことを私が言えば、これは明らかに異様に聞こえる。そんなことを想定しなければならないというのが異様なのである。にもかかわらずこの命題は、我々が営む言語ゲームの体系全体の基礎にあたるものである。この想定は、言うなれば、行動の基礎であり、したがって当然思考の基礎でもあるのだ

 

 著者によれば、これらの文章は彼とプラグマティズムの共有点をふたつ示している。

  1.  すべての経験的命題や信念が、同じ役割を果たすわけではないという認識
  2.  行為と思考が相互関係にあるという認識

 すなわち、ふたつめの引用で行為が「思考」に先立つことを示唆している。一方、明らかなように、行為は特定の諸信念を背景として生じるが、ひとつめの引用で、それらの信念が体系内において特定の基礎的価値を持っていることを指摘し、あらゆる信念が同じ役割を果たしているわけではないという考えを表明している。

 そうした信念のうちにはたしかに「基礎的」ではあるものの、それは「真理」とは異なるものであり、論理的に導き出されるものでもなくむしろ探求の埒外にある。わたしたちの行う説明はたしかに終わるのだが、それは最後の証拠(~だから。)が究極的に正しいというからではなく、その行為そのものが、その言語ゲームが形成されるための背景を成すからこそ、終わるのだ。それ以上行くと、意味がわからなくなる(「地球ははるか昔から存在していなかった」なら)。

 彼はこうした「背景」を「世界-像(world-picture)」と語る。世界像とは命題ではなく、一連の行動つまり生活形式としかいいようがないものだ。世界像という探求の埒外にあるものは暗黙のうちに決定済みであり、その背景のなかに息づく人間の文化がそれを決めている。「地球ははるか昔から存在している」といったような命題は、背景であり、私たちの行為と実践に固く結びあわされている――もし一秒前に地球が誕生したなら、そんな急にひょいと現れるようなものなら、どうして引き出しのなかに書類があるだなんて今も信じていられるだろう。それは事実上疑いをさしはさまれることはないし、そんなことをしても意味がない。疑ってみたところで、私たちの信頼はぴくりともぐらつかない。一方で、引き出しのなかにたしかにさっきしまった書類があっても、別に「地球ははるか昔から存在していた!」と安心したりすることもない。それはすでに””確実””なのだ。

 地球の存在というデカい話に限らず、特定の人間にしか当てはまらないようなものもこういう枠組み的命題の仲間に入れる。たとえば「私は小アジアに行ったことがない」とか。注意すべきは、それはあなたにとっては確実だが、たとえばトルコの人の枠組みではそうではない。それでこう訊かれる。「どうして行ったことがないとわかる?」それでこう答えるしかない。「私はそれを考え出したわけでも、だれかに教わったわけでもない。私の記憶がそう告げるだけである」もしこれが誤っているなら、私はありとあらゆる判断をひっくり返す必要に迫られる。問題は小アジアに行ったことがあるとかないとかに限られなくなる。

たとえば仮に、彼の確固たる記憶に反して、ウィトゲンシュタインは実は小アジアで何年も過ごしていたことが明らかになったとしたら、自分がノートを机に置いてきたとか、自分は今イングランドにいるとかいった[ごく当たり前の]ことを、どうして信じられる――信じている自分を信頼できる――だろうか。

ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ――プラグマティズムの水脈

 このようなウィトゲンシュタインの記述は、懐疑主義者に対する応答にもなっている。ところで《このような懐疑主義への適切な応答を見いだすことは、ウィトゲンシュタインの主要な関心事であるのに対して》、プラグマティストはそもそも、懐疑主義的な問いへの応答を避ける傾向にある。というのも、たとえば彼らの考えには懐疑主義者なら疑問視するような内容が始めから組み込まれているからだ。

 もちろん枠組み的命題が誤っているような異常な状況を考えることはできるが、もし同じようにすべて疑ってかかるなら、もはや「誤り」が何を意味しているかすらまったく理解できなくなる。やはりたしかなことは、枠組み的命題が、知識の獲得をめざす探求の途上にあるものではないということだろう。

 

 さて、結局、彼が「まるでプラグマティズムのように聞こえることを自分は言っている」と書いたのは何故だったのか。それは世界像、つまり実践や行為に根付いた思考の足場について語っているからだ。だがその取扱いは二者の間で大きく異なり、「今日本にいる」という世界像を確証するのは感覚や経験ではなく、自分の「思考」なのだが、もしプラグマティストなら、その考えは今、現に経験していることと調和するからというだろう。即ち、探求の途上にないか、または、あるかという違いがある。

 プラグマティズムの決定版のテクストである『プラグマティズムプラグマティズム (岩波文庫))』を書いたのはウィリアム・ジェイムズであるが、彼はここでウィトゲンシュタインの考えに対応するものについて書いている。ジェイムズによれば、《個人の信念はひとつのシステムを成しており、その古い諸部分は、生じる混乱ができるだけ小さくなるような仕方で新しい考えと接合されている》のである。このシステムは時の流れとともに開発が進むのだが、システムを抜本的に改革するときであっても、””ある特定の諸信念””だけは大切に保持する。これを「常識」という。「常識」は、システムがどれだけ変わろうが生き残って来たのだ。

 ウィトゲンシュタインと決定的に袂を分かつのは、このすぐあとである。ジェイムズはこの「常識」を、祖先たちが「発見したもの」だと語り、「知識」だと語る。二者はある一定の意見や思考様式がそのシステムのなかで確固とした場所を占めていることを一致して認めている。ジェイムズは、私たちのものの考え方が歴史を背負ったものであると指摘する。世界に関する思考は常識・科学・哲学的思考という三つのレベルがあるが、それは語り方の違いであり、どれかが優れて真だということではない。常識もまた修正される余地がある。ウィトゲンシュタインもまた枠組み的命題が真であるとは言わないし、また、歴史を背負っていることも認める。

 だが二者は決定的に異なる。

  1.  「論理のもたらす確実性は、私たちがおよそ「知識」と呼ぶものとは類を異にする」とウィトゲンシュタインはいう。命題はさまざまな使われ方をし、時にはテストされるべきものとして、時にはテストの規則として取り扱われることがある。だがそのことは私たちが、何が論理的真なのか、ということを決定できるという意味ではない。私たちは言語ゲームを選択することなどできず、また、言語というものは何らかの推論的思考によって生じたわけではないのだ。他方、ジェイムズは、新しい事実をシステムに適合させることを新しい習慣を身に付けたり、欲望を満足させたりするという問題であるかのように述べる。彼が書くものの中に、ウィトゲンシュタインのような「基底的次元にある命題を肯定したり否定したりしようとしてもまったく無意味なことだ!」という響きはまったくない。地球は五分以上前からあったとだれかに教え聞かせてやることに一体どんな意味があるのか。彼は歴史的文脈を認めるのだが、ある種の疑いや言明については、そもそもそれ自体可能ではないと考えている。論理というのは人間の行為に埋め込まれている特定の諸命題を示すけれども、だからといって、たとえば「五分以上前に地球があったぜ!」と””主張””などできない。ジェイムズが論理に取り組むとき、それは心理学的・唯物論的な説明になる。彼にとっての論理学の堅固さとは心にもともと備わった構造、つまり脳を発達させてきた内在的能力によって説明され、脳の構造に具現化されている。論理学とは「思考の仕方」にすぎない。だが、そのように論理を理解することこそ、ウィトゲンシュタインからすれば致命的である。
  2.  ウィトゲンシュタインは「哲学」と「科学」を徹底的に切り離している。一方、ジェイムズは哲学はより科学的になりうるしなるべきだと考えている。これは論理実証主義者たちと同じ考えであり、ウィトゲンシュタインが抵抗を感じた部分だろう。ジェイムズによれば、信念の正当化は経験的な事柄であり、いかなる場合もそうである。だが、《私たちが、自分たちの基準枠を構成する言語ゲームを習得するのは、説明によってではない。なぜなら、もし説明を理解できるのであれば、言語をすでに身につけていることになるからである》。言語を習得するとは、《人間的生活形式の習得》なのである。「私の世界像は、私がその正しさに納得したから……私のものになったわけではない」。ジェイムズは「常識」的諸信念に辿り着く物語を、あまりにも知性化している。もちろん彼も世界像の多くが科学によって到達されるわけではないし、ほとんどの世界像はテストすらされないことも認めるが、あくまでもジェイムズは、文化も含む進化の功績に帰されるべきことを、「先史時代の天才たち」の功績だと言い張る。

 プラグマティストたちとの線引きをするために、ウィトゲンシュタインが「有用性」について語っている節は参考になるかもしれない。

 私たちはなぜ考えるのだろう。ある一派、つまり還元主義者の一部は、「割に合う」からだと答えるだろう。つまり、そうすることが有用だから、私たちは考えるのだ。ウィトゲンシュタインは、考えることが割に合うケースがあるし、そこで作り上げられた像によって、たとえば「地球は丸い」といったような像によって、私たちがいろいろなことをうまくやれるようになることを認める。とはいえ、彼は思考作用はすべて割に合うから為されるとは言わない。それは一律に適用できるプラグマティックな原則に根ざすというよりも、むしろ、習慣と本能、感情と行為に根ざす。

 プラグマティズムは私たちの信念体系を知性化しすぎる。実はジェイムズも、以前にはこの本能的な層に気づいていたのだ。彼はこう書いている。

なぜひとは、そうできるときにはいつも、堅い床ではなく、柔らかなベッドの上に横たわるのだろう。なぜ寒い日には暖炉のまわりに座るのか。なぜひとは部屋の中では、十中八九、壁ではなく部屋の中央に向けて座を占めるのか。……そうするのが人間のやり方であり、またどのような生き物も自分なりのやり方を好み、当然のこととしてそれに従うようになるのだとしか言いようがない。科学がこれらのやり方を考察するようになり、それらの大部分が有用であることを見いだすかもしれない。けれども、こういったやり方に従うのは有用だからではなく、我々がそれに従う瞬間に、こうすることが唯一の適切で自然なことだと感じられるからなのだ。

ウィトゲンシュタインとウィリアム・ジェイムズ――プラグマティズムの水脈

 

 人間の実践の深層に根差した信念のネットワークについて、二者の見方を確認した。