先日投稿した記事の付録として、同じ著者が訳出を担当した『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ 1939年 (講談社学術文庫)』に書いている解説文「言語哲学と数学についての哲学的像」を読んでいこう。
⇩ 先日投稿した記事
carrot-lanthanum0812.hatenablog.com
ウィトゲンシュタインが特定の哲学的立場に与するわけでないことは主記事である程度明らかになったと思う。それでもあえてもし彼の立場に名前をつけるとするならば、「現場主義」となるだろう。しかし、これは《「言葉とは、その言葉が使われる現場において初めて十全な意味を獲得する」という言語観》のことであるが、「主義」と名前をつけるほどでもない、きわめて当たり前の事実なのである。
たとえば、「雨が降っているよ」という言葉について考えてみる。
- 太郎が朝起きると、ちょうど仕事に出かけるところであった花子が「雨が降っているよ」と声をかける。
- 甲子園で行われている高校野球の試合をテレビ観戦しようとした太郎に向かって、花子が「雨が降っているよ」と知らせる。
そのポイントは、言葉の字面――文を構成する語彙とその組み合わせ――だけを見ていたら具体的なコミュニケーションの場面でその文で何が言われているかは明確にならない、ということである。
「虚である数」というのは昔、かなり困惑や反発を招いたらしい。字面だけを見て困惑するのは現代ではなかなかお目にかかれないが、これも虚数がどんなふうに計算されるのかを見せることで解決した。私たちはかくも記号としての言葉にこだわってしまい、それが実際に使われている現場から目をそむけてしまう(あるいは、自分の中の典型的な使用にしか目がいかない)。ウィトゲンシュタインはそうしたこだわりがもたらす混乱を解消することを目指す。
私たちは言葉の精確な意味など規定せずに、おおざっぱに語る。そして、それは普通のことである。「国民の平等について考えないといけない」と言う時、平等とはどういう意味なのか。機会の平等、結果の平等、その他さまざまな解釈がありうる。しかし一方で、私たちは普段話すときそんなことを明らかにしなくても滞りなく会話しているのである。大雑把な物の見方を〈像〉と呼んだのだった。
だがこの〈像〉に執拗にこだわるとき、つまり【保護者がケーキを切り分ける場面】という〈モデル〉に基づいてのみ「平等」というものを把握し、それにこだわるとき、そこに混乱が生じている。哲学者たちでさえ、《像を、物事がそれへと一致させられねばならない究極の説明原理のようにして使ってしまう》(p.575)のである。そしてその結果、「イデア界」といったような別世界を作り出す羽目になってしまう。
たとえば「この場にいるすべての人の年齢はニ十歳以上だ」から「太郎はニ十歳以上だ」といったような推論は必然的なものに見える。しかしこれはひとつの像であり、私たちはそう帰結しないような人々を想定することができる。この必然性の由来は、この推論が私たちの「技術」であるということである。
ダメットはこの点を受けてウィトゲンシュタインを批判したが、彼の解釈者たちはみなその技術が我々の生活に根ざしていることから「なんでもあり」を回避してきた。たしかに論理規則はさまざま考えることはできるが、だがそれが私たちの日々の生活に場所を持つというわけではない、という理屈である。これに対して、元記事でも紹介した『薪を売る人々』の議論は、「生活の外側」というものの存在を排除した説明になっている。ここではこう説明される。たしかに我々は様々な記号操作ゲームを考案できるが、我々にはその記号操作のポイントがまったく理解できず、「論理的狂気に陥っている」と見なすしかない。要するに、わけがわからないもの、として目の前に現れ、位置づけられない。
この読み方に従うならば、「生活の外」は端的に存在せず、行為の空間の外側に論理的には意味をなす広大な領域が広がっているというイメージは拒否されねばならない。