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にんじんと読む「EVIDENCE AND INQUIRY(Susan Haack)」第四章

4 Foundherentism Articulated

 Our goal is an explication of epistemic justification which conforms to desiderata which emerged from the arguments of the previous chapters: to allow the relevance of experience to empirical justification(略); and to allow pervasive mutual support among beliefs(略).

 私たちの目標は、前章までの考察からわかったことに適合する認識論的正当化についての説明である。すなわち、経験と正当化を関連付けること、および、信念間の相互扶助を認めることである。

Evidence and Inquiry: Towards Reconstruction in Epistemology by Susan Haack(1995-01-09)

 これについて詳しくは、下の記事も参照。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 ある時点tにおいて主体Aがpを信じることが多かれ少なかれ正当化されている、ということは一体何に基づいてのことであるだろうか。私たちが尋ねているのはこのことだが、これ自体いくらかの前提を孕んでいることがわかる。

  •  第一に、主体Aが絡んでいるということ。非個人的なものではないということ
  •  第二に、時刻tが絡んでいること、つまり人が何かを信じることが正当であるかどうか、どの程度正当であるかは時間とともに変化する可能性があるということである。

 段階的に、この問いの答えを明確にしていこう。まず第一の近似はこうだ。主体Aが時刻tにおいてpを信じることが正当化されるのは、『彼の持っている証拠がどの程度優れているかに依存する』という説明である。こんなことはまったく自明だとも思える。とはいえ、このように表明することは「外在主義」よりも「証拠主義」を選択すると表明することでもあり、この意味で隠れた前提を持っている。つまり、正当化理由には主観的要素が必要であると表明していることになる。この選択の根拠について直観的に妥当だという以外にこの章で提示することはないが、第七章において検討を行うことにしている。

 さて、この第一の定式化をより明確にしていくために、私たちは次の区別を基礎にしようと思う。

Foundamental to this articulation will be the distincton between the state and the content senses of ’belief', between someone's believing something and what they believe.

この明確化の基礎となるのは、「信念」の状態と意味内容の区別、つまり誰かが何かを信じていることとその人が信じていることの区別である。

Evidence and Inquiry: Towards Reconstruction in Epistemology by Susan Haack(1995-01-09)

 前者を信念状態、後者を信念内容と呼ぶことにする。

 

 さて、人が何かを信じることがどれぐらい正当であるかは、彼が何を信じているかだけでなく、なぜそれを信じているかに依存する。どうして彼がそれを信じるのかという問題は、彼自身の信念状態や彼自身の経験の中で、彼が持っている根拠は何であるかということである。たとえば或る被告人が無実であると信じているαさんとβさんがいるとしよう。αさんが被告人を無実であると信じる根拠は、犯行当時、100マイル離れた場所で彼を目撃していたからである。一方、βさんが被告人を無実であると信じる根拠は、被告人が正直そうだからである。前者のほうが後者に比べてより正当だというのは自然なことだ。

 

 

 

 主体Aがpを信じているとする。それがどれぐらい正当化されているかは、Aがその信念状態を持つに至った原因に依存するだろう。それが一体なんであるかを説明するにあたって注意すべきことがある。

  1.  たとえば最初t1においては、ある人が被告を無実だと思ったのは単に被告が正直そうだったからだとしよう。しかし後のt2において被告に完全なアリバイがあると知った。これはある人が被告を無実だと信じ続ける理由になり、t1よりt2のほうがより正当化されている―――そこで説明には時刻tという条件が含まれることになる。
  2.  たとえばスミス教授がトム・グラビット君の本の窃盗を信じているよしよう。なぜならトム・グラビットくんはいかにもな表情をしており、しかもセーターの下の腹の部分がこんもり盛り上がっていたからである。スミス教授がこれを信じることは、「うちの学生に限ってまさか」とか「きっとあいつはトムの双子の兄弟さ」ということを信じることに勝っている。だからこそ教授はトム君の盗みを信じているのだ―――すなわち、信念状態はそれを肯定する要因も否定する要因もありそのバランスによって成り立っている。
  3.  たとえばAさんは「部屋に犬がいる」と信じている。その信念状態は、Aさんには目の前にいる犬が見えているというAさんの知覚が原因として挙げられるだろう。ところでその知覚は、現に部屋に犬がいるということによって引き起こされたものかもしれない―――すなわち、Aさんの信念状態の原因として挙げるものはA自身の状態だけで、他ときっちり区別しなければならない。

 というわけで、主体Aがpを信じることの原因は、網の目のように色々と続くことになる。大きく分けて、その信じることを維持する要因・否定する要因、それから主体の知覚体験、欲望や恐怖などである。私たちにとっての正当性の基準は、なにかひとつの原因を取り上げて「こうだからだ!」というようなものではないのである。ここには様々な要素が含まれ、たとえば酒を飲んで泥酔していたりドラッグで飛んでいたりパニック状態だったり、なんらかの恐怖症にある人は隕石が落ちてくるということを本気で信じるかもしれない。

 そこで私たちとしては最初の段階でこの因果連関内にある証拠的要素と非証拠的要素を区別しておく必要がある。前者はたとえば信念状態、知覚状態、内省的な状態、記憶等々であろうし、後者としてはアルコールやパニックの影響下にある状態といったようなものだろう。もちろんそういう判断に影響を与える異常事態が何かを信じることを説明するために必要になることはあるにしても、「どの程度正当化されているか」といった評価の問題には一切かかわることはないだろう。

 

 

 主体Aが時点tにおいてpを信じることの正当化の程度を評価するために、必要な用語を定めよう。

  •  Aがpを信じるS-reason(信念状態の理由)とは、Aの信念状態を支持する信念状態を指す
  •  Aがpを信じるための現在の感覚的あるいは内省的S-evidence(信念状態の根拠)とは、Aの信念状態を支持する知覚的あるいは内省的状態を指す
  •  Aがpを信じるための過去の感覚的あるいは内省的S-evidenceとは、Aの信念状態を支持する知覚的あるいは内省的痕跡を指す
  •  Aがpを信じるための感覚的あるいは内省的S-evidenceとは、Aの現在と過去の感覚的あるいは内省的S-evidenceを指す
  •  Aがpを信じるための経験的S-evidenceは、Aの感覚的および内省的S-evidenceを指す
  •  Aのpを信じるためのS-evidenceは、AのS-reasonと経験的S-evidenceを指す
  •  Aがpを信じないためのS-evidenceも、同様に定義される。ただしもちろん、「支持」ではなく「拒否」が用いられる。
  •  Aのpに関するS-evidenceは、Aがpを信じるためのS-evidenceと信じないためのS-evidenceを指す。ここには直接的と間接的S-evidenceという区別がある。

 原文ではこれが一段落に、区切りなしでずらずらと書いてあるので極めてわかりにくい。信念状態というのは「Aが何かを信じること」であった。たとえば、Aが「目の前に犬がいる」ことを信じるためのS-reasonとは、目の前に犬がいると信じていることを支持している、Aの””信じていること””を指している。これには色々なものがあるだろう。自分の眼が正常であることや、それが精巧な犬の置物でないことなどである。

 経験的S-evidence=感覚的及び内省的なS-evidenceは、信念状態とは異なる知覚的・内省的状態を指している。これは信念を補強するものではあるけれども、逆に、信念が経験を補強することはありえない(そうか? どんな信念を持っているかで見えるものも変わると思うけれども……)。この経験こそは信念の究極の源泉であり、最終的には人は「見えるんだよ!」という風に経験的S-evidenceに訴えるしかなくなるだろう。そうとはいえ、視力が悪かったり色眼鏡をかけていたり、あるいは混乱していたりすると見えないものまで見えてしまうこともありうる。

 ところで内省的とは「思い浮かべること」に近いと思うけれども、過去知覚との区別は少々難しい。けれどもこの区別を維持するためにも、内省的という区分を設けたのである。そしてもちろん現在と過去の感覚の区別も難しいが、ここでは感覚というものが瞬間的なものではなく或る程度幅を持ったものであると解しよう。例えば、「Aはpを覚えている」と言うことは、彼が以前にpを信じており、現在もそれを信じており、忘れていない(そしてもちろん、pが真である)ということを意味する。

 

 

 

 ここまでは信念状態、つまり「信じていること」に焦点を当ててきた。そこではS-reasonやS-evidenceが問題になったのだった。しかし信念内容、つまり「信じられている何か」の正当性を評価には主体の状態を云々して決着するものではないだろう。つまり今度はSではなくC-evidenceのようなものが、問題となるのである。信念内容は命題、あるいは言明であり、それらの相互関係を吟味することによって、その正当性が評価される。S-evidenceからC-evidenceへの橋渡しをしていこう。

 以下の記事における論文を参照した。

 

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

 

  •  'A's C-reasons for believing that p' will refer to the C-beliefs A's believing which constitute A's S-reasons for believing that p(「p と信じるのを支持する主体A の内容理由(C-reasons)とは、p と信じることを支持する A のS-reasonsを構成するところの、A のC-beliefsを指す)。

 

 いきなりよくわからないが、ともかくまず、C-reasonというのは命題である。たとえばpを「目の前に犬がいる」としよう。この時のC-reasonとは何か。それは、そのS-reason(ex.犬のようなものが見えている!)のような状態に自分が置かれているという命題である(ex.「犬のようなものが見えている」)。

  •  'A's experiential C-evidence for believing that p' to sentences or propositions to the effect that A is in a certain state or states the state(s) which constitute(s) A's experiential S-evidence for believing that p(「p と信じることを支持する A のexperiential C-evidence」とは、A がある一定の状態――p と信じるのを支持する A のexperiential S-evidenceを構成する状態――にあるという趣旨の文や命題を指す。)

 これもまた同様に、experiental S-reasonをもつような状態に主体があることを支持する命題を指している。

  •  'A's C-evidence for believing that p' will refer to A's C-reasons for believing that p and A's experiential C-evidence for believing that p(「p と信じることを支持する A のC-evidence」は、p と信じるのを支持する A のC-reasonと、p と信じるのを支持する A のexperiential C-evidenceを指す。)

 これは上二つをまとめてそう言っているのだ。これでC-evidenceに達したことになる。そしてもちろん支持しないほうも定義され、pに関するC-evidenceが、S-evidenceと同様に定義される。つまりそうした信念状態にあることを支持する主体の状態理由を、それを支持する命題に順に置き換えていったことになるだろう。よって、C-evidenceの特徴づけにS-evidenceの特徴づけが使われており、前者の特徴づけは後者の特徴づけに依存する。何をいっているかというと、C-evidenceという証拠の良さは最後にはS-evidenceによって決まるということだ。

 

That justification comes in degrees is attested by numerous familiar locutions: 'he has some justification for thinking that...'; 'he would be more justified in thinking that... if...'; 'his evidence is quite strong/at best flimsy/somewhat partial/one-sided'; 'his grounds are reasonable/ quite reasonable/overwhelming'; 'his evidence gives colour to/gives some credence to... 

正当化は度合いによって示されることは、多くのなじみのある表現によって証明されています。「彼には...と思う正当化がある」、「もし...ならば、それを思うことはより正当化されるだろう」、「彼の証拠は非常に強力である/最大限の根拠が薄い/多少偏っている」、「彼の根拠は合理的である/非常に合理的である/圧倒的である」、「彼の証拠は...に色を与える/...を信じる根拠を与える」などのフレーズが数多く存在します。

 ここまで提示されてきた信念の正当化の証拠たちは、何が正当化の度合いを高め、何が低くするのかについて教えてくれる。数学のように、「公理」から一方向的に正当化されていくモデルではない。それよりもむしろ、クロスワードパズルに似ている。クロスワードパズルには、「横1:~~」というようなヒントが色々あって、その途中の文字からまた「縦1:~~」のようなヒントが伸び、それが繋がって全体が出来上がっているだろう。このヒントが、このたとえで言うところの経験的証拠にあたる。

 クロスワードパズルのある項目が正しいという自信は以下のことに依存する。すなわち、カギと既に埋められた交わる項目によってこの項目にどれくらいの支えが与えられるか。また、当該の項目とは独立に、それらの既に埋められている項目が正しいという自信はどれくらい合理的か。そして、交わる項目はいくつ埋められているか、である。類比的に、pに関する A の内容証拠がどれくらい良いかは以下のことに依存する。すなわち、

  1.  how favourable A's direct C-evidence with respect to p is;(p に関する A の直接的なC-evidenceがどれくらい賛同的(favourable)であるか)
  2.   how secure A's direct C-reasons with respect to p are, independently of the C-belief that p(p であるという内容信念とは独立に、A の直接的なC-reasonがどれくらい確固(secure)としているか)
  3.  how comprehensive A's C-evidence with respect to p is.(p に関する A のC-evidenceがどれくらい包括的(comprehensive)であるか)