現象学は志向性の理論として認められている。その議論の多くは意識作用(ノエシス)と意識対象(ノエマ)の内在的な連関にかんする記述である。一方、こうも認められている。世界を意識に還元する観念論だとか、心のなかを覗けばなんでもわかる内在主義だとかである。
第一章では、デカルト観念説と対比する。それによって認識論の困難を浮き彫りになり、フッサールが自らに課した課題が明らかになる。フッサールは客観主義が陥る深刻な懐疑論に対して、「認識の可能性の条件」を反省的に記述する超越論哲学の綱領を示す。観念論から得られるものは無前提性の徹底と、世界や事物を意識作用によって構成された意識対象として見る方法である。
第二章では、西海岸解釈(ドレイファス・スミス・マッキンタイア)と東海岸解釈(ドラモンド・ソコロウスキー)といった「ノエマ」という概念に対する立場を紹介する。一方はノエマを言語的な意味と解し、他方は感覚的な現出とみなす。それぞれの解釈には難点がある。現代の解釈は従来の認識論の枠組みにいまだ縛られているのだ。
第三章では、これまでのノエマ解釈がもつ共通の前提を指摘した。それは『主観にとっての志向的な〈関係〉の実相を、体験される知覚や思考される意味といった所与の〈現前〉に帰着させる方針』(現象主義)である。フッサール現象学は「理論負荷性」「遂行的様態」といった知覚の本性を見出すことによって現象主義を根本から取り除くことに成功する。
第四章では、認識の正当性を現実のかかわりから明らかにする。つまり現象学に外材主義的な視点を確保することを目的にしている。
第五章では、真理という概念が経験に対して持つ価値について考える。