現象学の主要目的とは、学問の根拠づけであり、とりわけ論理学の超越論的根拠づけである。
この目的に沿って現象学の構造を記述するにあたっては、ふつう、いくらかの概念を明確に規定しておくのが望ましい。しかし、それがそうもいかないのが、現象学的思考である。なぜかというと、現象学とはいわば「考古学」であって、すでにできあがっている概念を用いてその根拠を説明しようとする営みである。たとえば対象ということばは伝統的哲学においてもよくつかわれ、非常に手垢のついた概念ではあるが、私たちの出発点はまずここにしかない。垢や砂、余計なものを取り除きその概念を見定めるとしても、やはりそれはもともとの概念の成分のいくつかを変更したものとしてしか解明できないのである。こうして解明を受けた概念でさえも、理論の発展とともに細分化を免れない流動的なものであり(ひとつの化石だけではだめだということ)、私たちが最終妥当的な結論を手に入れるのはこの学問がひじょうに発展しきたった後なのだ。
対象
たとえば、「イエナの勝者」「ワーテルローの敗者」という表現はそれぞれ意味こそ異なるが指し示す「対象」=ナポレオンは同じであると考えられる。ただ、ここでいう表現とは意味をもつ言葉であるが、意味をもつからといって対象を持つとは限らない。たとえば「丸い四角」は意味をもつ表現であるが、対象を持たない。
表現には「意味」を指し示す場合と、〈対象〉を指し示す場合があり、それぞれ〈意味する〉、〈名指す〉と呼ばれる。ただし、すべての表現は「意味」を意味するが、何かを名指しているとは限らない。そして何かを名指す場合には、「意味」を介して、その何かを名指すのである(イエナの勝者ってことは……)。ここにおいて対象とは、表現の意味を介して名指されるものであると言える。これが基本的な定義である。
- 第一の拡大的定義: 対象はいつも実際にあるものとは限らない。
- 第二の拡大的定義: 単語ではなく、「Sはpである」といった判断の形式をとることもある。その場合、判断が指し示すものは事態である。これをカテゴリー的対象ともいい、対象の仲間である。
表現が意味を持つことは本質的だが、対象を持つことは非本質的である。それを結び付ける意識の働きを意味充実化作用、あるいは直観と呼ぶ。直観の基本的形態は知覚であり、表現から意味を介して対象へ結び付けるというのも知覚を基礎としているのだ。このうち、カテゴリー的対象をもたらす直観をカテゴリー的直観といって区別する。ここでいう「カテゴリー的」とは、〈述定にかかわる〉という程度の意味である(「Sはpである」といったようなものに関わる)。
<意味充実化作用>
対象を与える作用 = 感性的直観 = 知覚
事態を与える作用 = カテゴリー的直観
このカテゴリー直観というものを認めるかどうかが現象学の要諦である。まず現象学というのは直接経験に戻ってものを説明しようとする学であり、そして現象学はすべての学問の基礎である。「Sはpである」という基本的な判断を直接経験に戻って説明するにあたって、Sだとかの名辞を感性的直観に委ね、「は」とか「p」とか「である」とかいったようなことをカテゴリー的直観に委ねるのだから、もしこんな直観が考え難いとなれば現象学はすべて終わりだといってよい。カテゴリー的直観が事態を成立させる。