にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「知への恐れ」🥕 途中まで

はじめに

 ネイティブアメリカン部族と考古学者がぶつかったことがある。考古学者は彼らの起源について「一万年前にベーリング海峡を渡ってはじめてアジアからアメリカ大陸に来たのだ」と説明したが、部族はこれに反発して言った。「いや、我らの祖先は精霊のいる(アメリカ大陸の)地下世界から来たのである」と。

 この対立について、科学に味方するのは簡単だが、科学に対してそのような特権性を認めるのはなぜなのかという理由は定かではない。科学は世界認識の方法のひとつにすぎないのだ。このような立場が共有するのが次の原理である。

平等妥当性の原理

根本的に異なっているが「等しく妥当な」多くの世界認識の方法があり、科学はそのうちの一つにすぎない。

 さらりと聞けばまぁそうかなと思えなくもないが、これがもたらす帰結は深刻である。簡単にいえば、結局ネイティブアメリカンの先祖はいったいどこからきたのかよくわからなくなるのだ。私たちは事実というものは誰の目から見てもコレだと決まると考えているが、実はそんなことはまったくなかったのだ。考古学者はさまざまな証拠からベーリング海峡からやってきたのだと推理した。これは理にかなっているが、部族もまた彼らなりの方法によって、先祖が地下世界からやってきたと主張するに至ったようだ。どちらも正しいのだ。だが、そんなことあるか?

 こうした例はわかりやすいが、最近これがバージョンアップしてこう主張する者が多い。『知識はすべて社会的に構築されるため、いかなる知識も社会的に依存している』と。ある信念が知識であるかどうかが偶然的な社会的背景によって決定される、というのは本当に正しいのだろうか。