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にんじんと読む「フッサールにおける価値と実践」

第一章 価値にかかわる経験

【第一章要約】

 評価作用を非客観化作用とみなすと、客観主義的な直観と合わない。 → フッサールはもはや客観化/非客観化という作用の区別を放棄することにする。

 フッサールは、対象にかかわる体験を、作用と呼ぶ。あらゆる作用は定義からして対象にかかわっているが、かかわる仕方について他の作用と区別される。ここに「仕方」を表す二つの概念として、作用質料と作用性質が導入される。ナポレオンについて考えるうえで、彼を「イェナの勝者」とするか、「ワーテルローの敗者」とするかでナポレオンと異なる仕方でかかわっている。これが質料を異にするといわれる。質料は「作用がそのつどの対象性をどのようなものとして統握するかを規定する属性」である。一方、「火星に知的生命体はいる」という場合と、「火星に知的生命体はいるかなあ」という場合では、同じ質料ではあるが、関わる仕方が異なる。これを性質を異にするという。そしてひとつは判断という性質、ひとつは問いという性質をもつ。どんな作用も、質料と性質をもつ。

 なにかを美しいとか、有用だとか、不道徳だとみなしたりする作用はともに「評価作用」という共通の性質を有するように思われる。それぞれ美的評価、道具的評価、道徳的評価というようにさらに区別することもできるだろう。評価作用はもちろん質料を持ち、たとえば、〈目の前の小さな花〉という質料を持つ。ところでそれを評価している人は、知覚・想像・想起といった別の作用を土台にしている、別の作用に依存しているように思われる。こういうとき、評価作用は知覚作用といった別の作用に「基づけられている」と呼び、基づける側の作用を客観化作用、られる側の作用を非客観化作用と呼ぶ。評価作用が非客観化作用ということは、それが固有の質料を持たないということ、つまり、評価作用が持つ質料はそれが依存するところの作用の質料と同一であることを意味する。客観化/非客観化作用の違いは、結局のところ、性質の違いでしかないことを帰結する。この点こそが、評価作用をただしく汲み取れていないのではないかと考えられる。それを以下で見て行こう

 ところで、作用間には他の関係もある。たとえば「隣の部屋に教授がいる」と言われて見に行ったら、たしかに教授がいたとしよう。部屋に入る前も後も教授にかかわる作用を遂行しているのだが、後者が前者を確証させるという関係にある。確証させるほうの作用を意味付与作用、確証する方の作用を直観作用と呼ぶ。このように、ある作用の対象へのかかわりの正当性が別の作用によって確立することを「充実化」と呼び、充実化が起こって初めて対象が「与えられ」、対象との関係が「実現される」と言われる。充実化にかかわる二つの作用は同じ対象にかかわる。定義に忠実にいけば、評価作用に特有の充実化などありえない。なぜならその充実は、それが依存するところの客観化作用の充実を同時に意味するからだ。より一般に、非客観化作用に固有の充実化などというものは存在しない

 さて、非客観化作用の違いは性質、つまり「火星に知的生命体はいる」「火星に知的生命体はいるかな」「火星に知的生命体がいることを望む」といった違いである。ここでは判断・疑問・願望という作用が表現されているが、この作用が表現されるということには三つの区別がある。

  1.  表現される作用が意味付与作用(他の作用を確証させる)として働く場合
  2.  表現される作用が名指しや判断といった客観化作用の対象になる場合
  3.  表現される作用が直観作用(他の作用に確証させられる)として働く場合

 「私は火星に知的生命体が存在することを望む」という文は、願望作用が主役になっている場合もあれば、願望の内容である判断作用が主役になっている場合もある。これだけではなく、たとえば、「一羽のクロウタドリが飛び立つ」という文は、「一羽のクロウタドリが飛び立つのを見た」という文とは異なることがわかる。それは誰が知覚していようがいまいが意味ある文である。

 非客観化作用が表現されるとき、第一の意味ではありえない。第二の意味では可能である。火星人がいることを望むとき、願望についての判断が示されている。そして第三の意味で表現されることは、非客観化作用が固有の質料をもたないのでありそうにない。すなわち、非客観化作用は客観化作用の対象としてしか表現されないということが帰結する。だが本当にそうなのだろうか。「あいつのやったことはえらいよ」ということと、「あいつのやったことはえらいことだと思うよ」は同じ意味なのか。実はそれがえらいものでもなんでもなかった場合、「昔はえらかったが、今はえらくない」となるのだろうか? つまり、価値判断についての客観主義的な直観(それが真理条件をもつという考え)に反する。この反論はその直観を持っている奴にしか効果のないものではあるものの、評価に固有の正当性というものが消え失せることはあまり好ましいことではない。特に正当化による秩序を考えていたフッサールにとっては大問題であった。それは自身のプロジェクトを実行不可能にするものだからだ。

 じゃあ評価作用は客観化作用だったのではないのか。だがもしそうだとすると、価値にかかわる作用の正当性が、非価値的なものにかかわる作用の正当性と同じ仕方で説明されることを意味する。だがこれで本当によいのだろうか。評価に固有なものをすくいきれていないのではないか―――そうしてとうとう、フッサールは客観化/非客観化という区別を放棄するに至る。

 

 そうとはいえ、評価作用についての観察がすべて間違っていたわけではなかったと思われる。ある対象に評価的にかかわるためには、同じ対象に非評価的な仕方でもかかわっていなければならないというのは鋭い洞察である。彼が間違っていたのは、「よって評価作用は固有の対象への関係をまったく欠いている」と判断したことだ。評価作用が存在するためには非評価的な作用が存在しなければならない。これは正しいが、評価作用の持つ対象への関係を、非評価的な作用にすべて負わせてしまう必要はまったくなかったのだ。

 そもそも評価作用と願望作用を本質的にまったく同種の体験だと考えられていることが問題だ。それによって評価作用の固有性を見失ってしまったといってよい。たとえば「お酒飲みたいなあ」と思うとする。だがあなたはこれ以上飲むと肝臓がヤバいことを知っており、お酒を飲むことは望ましくないとわかっている。願望が不適切であるといわれるのは、ある対象を望ましくないものとみなしていながら、ある対象を望むときである。だがお酒を健康面から望ましくないものと評価しながら、健康面から望ましいものと評価するのは不可能である。評価が不適切であるというのは、実際は肝臓がヤバいのに「飲んでも大丈夫だ!」と評価することであろう。つまり、評価が不適切であるというのは、対象の実際の価値に適合しないことである願望が、主体の同時に持っている評価との不整合によって不適切なものとなる一方で、評価は実際の価値に適合しない場合に不適切なものになる。それぞれは異なる規範的文脈に属しているのだ

 もちろん、実際の価値とやらがなんなのかはさしあたりまったくわからない。しかしそうした問いの可能性さえ、今までは閉ざされていたのである。

 

第二章 経験の正しさと存在の意味

 人が対象をしかじかの価値をもつとみなしているという事実と、対象が実際にもっている価値との関係——評価的態度と価値の関係を問うことは、今のところのフッサール理論では到達できない。まずこの「価値」というものを、なんらかの意味で私たちの態度に依存していると考えるか考えないかによって二つの立場が分かれてくる。フッサールはどちらの陣営に与していたのだろうか。この問いに答えるためには、まだ多くの時間を要する。彼が自身の立場として表明していた超越論的観念論について、つぶさに見なければならないからだ。

実在論と観念論の対立はさまざまな局面で語られるが、最も一般的な仕方で特徴づけるなら、世界の存在の仕方をめぐる対立だといってよいだろう。ごく大雑把にいえば、世界は心ないし意識なしには存在しないと主張するのが観念論であり、世界は心ないし意識から独立に存在すると主張するのが実在論である。

フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか

 たとえば、『なぜこのペンが存在するといえるのか?』を問おう。

 そしてこの問いを、「ペンがあるという発話が真になる条件についての問い」と解釈してみよう。実際にそう見えることは本当にあるかどうかとは関係ない。そもそもどれだけ証拠を重ねようが幻覚かもしれないといわれればそれで終わってしまう。私たちはペンが存在するとはいえないとあきらめるのか、あるいは証明するためにがんばるか。

 フッサールはいずれの道もとらない。ペンが””本当に””存在するかどうかなど問題にしない。彼が問題にするのはペンが存在するといえるならばどんな条件のもとでなければならないか、ということである。これは「ペンが存在すると認められるための必要条件」を求めるものだ。具体的にいうとフッサールは、観察することもできず現象を説明するのに役に立たないようなものの存在を受け入れるのは難しいとする。だがこれ自体は、実在論を否定している訳でも観念論に与しているわけでもない。なぜなら、必要条件でしかない以上、事物はそういうものとは関係なく存在するという実在論の主張もまだ可能だからである。

 とはいえ、基本的にフッサールは経験からまったく独立した存在について語ることを無意味とみなす。彼は「~が真である」というのは正当化可能性と関係していると考えており、さらに正当化は私たちの経験と関係づけられているからである。いわゆる””意識””と一切、なんの関係もない、完全に独立した存在の外界は拒否される。これは形而上学実在論の拒否である。しかし、あらゆる存在は意識に依存しているのだと主張している訳ではない。さらに、常識的に私たちが「隣に先生いたよ」といわれて先生の現実存在を疑わないような、常識的な感覚を拒否している訳ではもちろんない。

 

 以上、まとめると、超越論的観念論は知覚となんらかの関係にある事物についてしかそれが存在するとは主張できないという意味で形而上学実在論を拒否するが、あらゆる存在が意識に依存するなどとは言わないという意味で観念論的ではない、いまそこに存在するとされるものの意味を探究するプログラムである。

第三章 ブレンターノにおける情動と価値

 ブレンターノはフッサールに大きく影響を与えた哲学者である。

 彼にとって心的現象とは、「私たちの意識に現れてくるものごとのうちで、対象への志向的関係をもつもの」である。これと対をなす物的現象は色、音、匂いなどの感覚される内容で、これらは志向的関係を持っていない。すなわち、意識に現れてくるすべてのものは、心的か物的かのいずれかである。心的現象は「表象」「判断」「情動」の三つのクラスに分ける。これらはどのように異なり、どうやって分ければいいのだろうか。

 表象はもっとも基本的な心的現象である。何かが意識に現れているときは、私たちはかならずそれについての表象をもっている。したがって、あらゆる心的現象は表象であるか、表象を基礎にもつかのいずれかである。残りの二つのクラスは、異なる仕方で表象の対象に関わる。判断は対象の存在を承認/拒否する(つまり知覚や想起も判断カテゴリに含まれることになる広いカテゴリである)。情動に含まれる心的現象はすべて、何かを正の価値/負の価値をもつとみなすこととして特徴づけられる。彼によれば欲求は対象を望ましいものとみなしており、意志においては対象が実現すべきものとみなされる(正/負の価値をあらわす述語は色々ある)。判断が正しいか正しくないかのどちらかであるのと同じように、情動においてもそうなのだとブレンターノは言う。たとえば友人からプレゼントを受け取った時、たとえどんな事情があっても感謝の気持ちを抱きこそすれ、このクソ野郎がと怒りをあらわにすることは正しくない、とされる。

 彼の理論でいけば、あらゆる情動は価値にかかわる。価値と正しい情動は相関的である。すなわち、ある対象をよいものだとみなす情動が正しいならその対象は実際によいものなのである。つまり、情動は価値を見て正しい正しくないのいずれかになるので、価値が情動とは独立に成り立っていると考えなければこの説明はまったく機能しない

 だがブレンターノは正しい情動→価値なのだと信じていた。そうすると、正しい情動の正しさはなにによってはかられているのか。それは「明証性」である。それが正しいということが直接に、調べなくてもわかるような、そんな情動があるのだ(明証的情動)。明証的情動に訴えることは、残念なことに、彼の理論を疑わしいものにする。まずどれだけ明らかに見えても間違っていることは普通にある。つまり明証的情動を持っていることが、その情動の正しさを証明しない。致命的である。

 

第四章 価値はいかにして構成されるのか

 フッサールは、評価作用の正当性によって現実の価値を説明する点でブレンターノに近い。しかし評価作用もまた分析の対象になっている点では、価値論としては彼よりも前進しているといえよう。

 さて、そもそもフッサールは「価値」をどう考えていたのか。彼にとって「価値がある」というのは、誰かがそうみなしている、ということではないし、ある共同体にそういう傾向がある、というようなことでもない客観的なものであった。

  1.  価値にかんする見解には正しいものと間違っているものがある
  2.  その正しさは、個別の主体や共同体の評価および評価傾向に依存しない

 この二つの考えをとっていることを、フッサールは価値について客観主義の立場をとる、と呼ぼう。ただ注意しなければならないのは、価値は時間によっても場所によっても移り変わっていくが、客観主義をとったからといってその相対性まで拒否しなければならないわけではないということである。このことは後で説明しよう。

 ここで改めてフッサールの構成分析の考え方を復習しよう(第二章第三節)。

 たとえば事物は見られたり思い浮かべられたり思い出されたり記号を用いて示されたりといった色々な仕方で志向される。しかしすべてが同等の資格をもっているわけではなく、他の仕方に対して特別な役割を果たしているものがあり、その作用こそが事物の本来的な与えられ方をなしていると考えられる。冷蔵庫の中にバウムクーヘンがあるといわれたときに、そのバウムクーヘンが直接的に志向されるといわれるのはどうしたって「知覚」である。直接性だけでなく、私たちは他人の言葉を確認するために実際に冷蔵庫を開けて中を確かめるのである。それが無理でも、可能ならば実際に見たほうがいいのには違いない。この意味で知覚作用というのは規範的な位置を占めているのである(他の作用が実際のありようと一致しているかは知覚によって確かめられる)。

 より一般に、ある種の対象がある種の作用のうちで本来的に与えられることは、その種の対象がその種の作用において構成されることと同じ意味である。つまり構成とは作用タイプと対象タイプのあいだの特定の関係のことであり、””創り出される””といったようなニュアンスはない。知覚作用は事物を本来的に与える作用(⇔事物は知覚作用によって構成される)わけだが、「すべての知覚が」そうであるわけではない。なぜなら知覚は間違っているものがあるからだ。真正な知覚はOKだが、錯覚や幻覚は構成しない。

 事物は真正な知覚作用によって構成される

 次の課題はなにが真正なのかという、知覚の正当性条件を明らかにすることを意味する。すなわちフッサールのいう「構成分析」とは、あるタイプの対象を本来的に与える作用のタイプについて、その正当性条件を明らかにすることである。

 

 さて、そういうわけで、話は戻る。

 

 価値にかんする客観主義によって、価値の構成分析という課題が意味を成す。冷蔵庫にバウムクーヘンがあることが私たちにはっきりわからせるのは、実際に冷蔵庫を見ることである。つまりバウムクーヘンは知覚作用によって構成されるのである。同じように、価値はいったいどんな作用によって構成されているのだろうか。私たちは客観主義にいちおう同意して構成分析をしているのだから、存在するであろうところのこの作用を「価値覚」と呼ぼう。

 価値覚はどんな作用だろうか。まずそれは価値判断ではない。絵画を見る時にそれを純粋に享受し没入する態度と、批評家の目で美しいと判断することは同じではないからだ。価値覚とは、むしろ前者のことなのである。

  •  バウムクーヘンと類比的に考えるならば、「あれって美しいよね」と言われて、享受し没入する価値覚という作用によってそれを確証するという関係があると思われる。
  •  価値覚というのは対象への感情的反応と関係がある??

 感情はそのまま価値の把握(把握説)なのだろうか、それとも価値の把握を受けての反応(反応説)に過ぎないのか。感情は対象の非価値的な性質についてなにも意識することなしに起こることはないのだから、基づけられたものである。この点は評価と似ている。

 感情が何かへの反応という性格を持っているのは否定しがたい事実だ。だがそのことをもって、反応説が帰結するわけではない。もちろん把握説は、感情に先行する価値把握を認めることは立場上絶対にできない。つまり感情は価値に対する反応ではありえないのだが、『価値以外のものに対する反応だ』と言うことはできる。歯をむきだしにしてこっちに向かってくる野犬に対して「怖い」という感情は、その犬の危険さに対する反応ではなく、犬の体の大きさや牙の具合といった非価値的性質に対する反応だというわけである。つまり感情は非価値的性質に反応すると同時に、価値的性質を把握するような体験なのである。逆に言うと、反応説は感情以前に価値把握の体験を持ち出してくるわけだが、自分のテーゼを守るぐらいしか機能していない(一体どんな体験だというのか、弁別する手段はまったくない)。もっともらしさでいえば、把握説に軍配が上がるだろう。

 把握説論者は知覚と感情の類似をよく言う。非価値的な情報を得るための基礎的な手段が知覚であり、価値的な情報を得るための基礎的な手段が感情である。感情と知覚が異なる部分を確認しておこう。

  1.  感情には理由が問えるが、知覚は問えない
  2.  感情は正負をもつが、知覚はもたない
  3.  感情は強度をもつが、知覚はもたない

 さて感情が価値覚だといちおう考えてみよう。構成分析の次のステップは、感情の正当性条件である。まず当然だが、感情作用が正当なものであるとき、これを基づける非価値的把握をする作用も正当なものでなければならない。絵画が美しいと言いながら、絵画がグニャグニャで見えているものが違ったら正当な評価とは言えまい。つまり基づけられた作用である以上、内在的/外在的正当性がありうる。

 感情が非価値的なものに対する反応でもあったことを見ると、反応として正当であることも要件に加えられるに違いない。ここで価値の相対性の話に戻るわけだ。カエルをキモいという人もいれば可愛いという人もおり、牛肉を食べることは好ましい人々もいればそうでない人もいるし、絶対に忌避される文化的歴史的文脈もあったことだろう。

 この事実は客観主義を揺るがすものだろうか。ある人が白いといい、ある人が黒いというような場合に、両方ともが真正な知覚をなし、正常な知覚判断を下しているとは考えられない。それと同じように、カエルに対して「キモい」「可愛い」という正反対の感情を抱いている場合には、どちらかが誤っているのだろうか。牛肉を食べることは分化によっては正当でないとされる場合もあるように思われる———このような価値の相対性は否定できない。主体の文化的なあり方によって価値が180度変化する強い相対性である。

 この問題に対処しよう。

 まず、価値というものは観点相対的な性質だと考えられる。それは栄養学的・疫学的・道徳的・経済的に望ましいとか望ましくないとかがある。すなわち端的に望ましいとか、端的に悪いといった価値は存在しない。知覚の場合にも空間的な観点(この位置からはこう、この位置からは……)というものがあったように。感情の正当性は知覚よりもずっと複雑であり、

つまりそれは、「対象がしかじかの非価値的性質をもち、対象と主体がしかじかの文脈に置かれているならば、主体はその対象に対して、しかじかの尺度においては、しかじかの感情をもつべきである」といった形式をとることになる。

フッサールにおける価値と実践: 善さはいかにして構成されるのか

 そして、このようなきめ細かいものとなるとしても、客観主義を捨てる理由にはならない。価値に尺度や文脈といった変数を組み入れて本質的なものとみなしても、価値自体を個別の主体や共同体が実際に持っている評価や評価傾向に依存したものとみなす必要はまったくない。

第五章 道徳的判断と絶対的当為

 ここからは「~をすべきだ」という道徳的判断を考察する。

 ここにおいても、道徳的判断が客観的であるという立場をとる。すなわち、

  1.  道徳的判断は、それが正しいときには、あらゆる可能な行為者についてあてはまる判断でなければならない
  2.  道徳的判断は状況づけられた行為タイプの客観的性質についての判断である(ある状況でそうすること、に対して、なすべきであるという性質を帰属させる判断)。

 ただ、この意味での客観性を認めることは「道徳的判断は判断主体から独立した事実によって真偽が決まる」(道徳的実在論)に与するわけではない。フッサールはあらゆる判断を客観的なものとみなすが、意識からまったく独立した事実などというものは認めない。それが超越論的観念論の立場でもあった。

 

 さて、フッサールにとって価値判断は、評価作用の表現である。同様に考えれば、道徳的判断は、ある行為をある状況のもとでなすべきとみなす作用の表現だということになろう。いったいその作用とはどんなものなのか。ある時期のフッサールはこれを意志作用だというが単なる意志ではありえない。この作用を「絶対的当為」と呼ぼう。

 私たちが行いうる行為は複数あり、明示的にせよ非明示的にせよ価値が帰属させられている(肯定的/否定的/中立的)。その中で特定の行為をなすべきだとみなすことは、他のどの行為よりも価値があるとみなすことを含む。つまり道徳的判断はある行為を他の行為よりも価値的に優位におくという側面を持つ。ふつうに考えすすめると、選択が正しいのは、一つ以上の肯定的/中立的な価値を持つ選択肢があり、そのうちで最も高い価値をもつものを選ぶときに限る(「吸収則」)。否定的な価値を持つ行為だけが並んでいたら何もしないほうがよい。また、ここで道徳的判断は価値判断の特殊な形になっている。

 とはいえ、吸収則だけで万事がうまく説明できるわけではない。なにしろ、私たちが考慮できる選択肢などたかがしれているからである。だから行為者がある状況のもとでなすべき行為は、中立的観察者の視点においては、一義的に決まると彼は想定する。もちろんここでの中立性は見果てぬ目標ではある。行為者が正しく意志するのは選択の時点で可能なあらゆる行為のうち、最も価値ある行為を意志するときに限るのである。

 とはいえ、サイコロを振って適当に選んだ行為をやってたまたまいいことをするやつを認めるわけにはいかない。フッサールは盲目的/洞察的な意志という、根拠にもとづいてする意志の区別をたててこれを回避しようとする。彼の倫理学は、要するに、「行為の選択肢があり、付随した価値があり、理性によって比較衡量し、最善のものを選択せよ」というもので、きわめて合理主義的である。