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にんじんと読む「悪党・ヤクザ・ナショナリスト 近代日本の暴力政治」 第一章①

第一章 愛国者博徒

 明治の世となって西洋を模範として法整備が進められる中で、戸惑った農民たちが起こした一揆や反乱のなかで有名な秩父の困民軍の指揮官と副指揮官である田代栄助と加藤織平は「博徒」だった。1884年のことであるが、実はそれ以前には彼らのようなヤクザが農民一揆や政治反乱の首謀者になったという話は伝わっていない。

 明治の混乱期、志士と博徒は装いを一新し、暴力専門家の先駆となった。

 志士を代表するは下級武士である。とはいえ、徳川時代において彼らが領土防衛の任につくことはまれであり、彼らが武器を取ることとなったのは西洋列強に対する幕府の対応に強い失望を抱いたからである。それが志士だ。一方、博徒徳川時代のギャンブラーであるが、自身のビジネスを守るために体を鍛えていたことから幕府から直轄地の警備の助力を求められていた。博徒を兵として取り立てた藩さえある。

 志士にとって暗殺という暴力戦術は当たり前であり、西洋人の言いなりになっている者は暗殺の対象となった。彼らの目的は日本人を罰し、外国人排斥の流れをつくって不愉快な条約を叩き壊すことだ。志士の暴力時代は1860年桜田門外の変で幕が開く。外国人にとって志士は日本人の野蛮性そのものだった。彼らは自らの暴力を天誅として正当化し、喧伝し、逆らう者に脅しをかけた。とはいえ、彼らの暴力は恐怖を与えはしたが倒幕にはつながらないし外国人もいなくならないのがハッキリし、しかも幕府軍によってねじ伏せられるため志士の限界も明らかになってくる。だが彼らが残したものは大きい。志士はテロリストとしてネガティブにみられる面もある一方、天皇への忠誠ゆえに称えられもする。これにより志士は理想化され、自由と抵抗の象徴として祭り上げられる。