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適応について(リライト)

2018年10月8日の記事

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

【要約】

 アニメ『SHIROBAKO』は、やりたいことを仕事にした子たちの苦労と成長の物語である。夢に生きるその様子は本当にうらやましいが、苦労している身近な友達の例もあわせて、絶対に代わりたくない。なんだかんだといいつつ、自分の現在の状況は、今の環境において可能な限りで自分の理想を反映したものなのである。

 

 自分の現在のライフスタイルが最適地だというのはぼくが変わりなく持ち続けている思想のようだ。ただし勘違いしてもらいたくないのは、「選んでそうなった」わけでも、「固定された場所」でもないということだろう。

  •  ぼくは選択ということをあまり重んじない。それは一個の条件である。それは複数の変数のうちのひとつにすぎない。
  •  状況は日々移り変わる。肉体は滅びつつある。この世は無常であると教える仏教は、少なくともその点では徹底的に正しかった。なにひとつたしかなものがないなかで、たしかなものを求めようという原動力は恐怖である。それは神かもしれない。哲学かもしれない。科学かもしれない。いずれにせよ、私たちは恐怖に常に突き動かされている。脅威が去れば安心する動物たちとはちがって、人間はいつも必要以上に心配している。
  •  ライフスタイルだなんていうと、いかにも自分で選択するもののように感じられる。それは「スタイル」だからだ。ライフスタイルだなんていうと、いかにも形の定まったもののように感じられる。それは「スタイル」だからだ。これをもっと適切にいうなら「適応」だろう。私たちは状況に適応する。話はそれで終わる。
  •  状況だけ取り出せば、適応にはいろいろな可能性が考えられる。単に適当するだけなので、勝ち負けはない。勝ち負けを決めるためにはルールが必要になる。社会も環境の、つまり適応されるもののひとつである。ルールは合意のうえで、あるいは暗黙のうちに、内面化されていることがある。それは「勝つ」ことによって有利になったり、「負ける」ことによって不利になることによって強化される。だがその価値が有効なのは、その利が、そもそも生きる条件がそれぞれ違う各々にとって価値を持つ場合だけである。