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文章について(リライト)

2018年10月2日の記事。

carrot-lanthanum0812.hatenablog.com

【要約】

たまに見かける読みにくい文。

出版社から出ていて複数人の目が通っているのに、文を整えていないのはなぜ?

無駄に長く書くことの素地は、学校の読書感想文や、社会で求められるいろいろな書類からも見てとれる。

 

 四年経ったいまでもおおまかな内容は納得できる。とはいえ、それを伝える自分の文章はいま読んでみて幼稚だなと思う。なんとか読者に振り向いてもらおうとしている。子どものようだ。

  •  今はそれほど神経質でない。というのも、多少ごたごたした文であろうが、著者にとってそう表現するのが自然だっただろうからだ。たとえば、「そうでないということはない」と「そうである」ことが同じ意味だが文字数が少ないので後者に書き直せ、というのは暴論だろう。まずそもそもこの二つは同じ意味(=言いたいこと)ではない。「好きです」と「好きでないことはないです」と言われるのとで同じ意味だという人はいないはずだ。もちろん同じつもりで口にする変わり者もいるだろうが、一般的には言い方が異なればニュアンスが異なるものだ。
  •  そうとはいえ、どうでもいいところで小難しくしている場合もあるだろう。読ませる気があるのかと思うことすらある。しかしそもそもそういう本は途中で捨てるので、続きは読まない。どれだけありがたいことが書いてあろうが、少なくとも今の自分には必要ないだろう。そしてたいていの場合、必要になることはほとんどない。
  •  文章を読むことで得られるものは、ジャンルに応じていろいろある。何も得られないのに長々とした文章を読むほど、ぼくは活字中毒ではない。もしツイッターで400字を延々と繋げて同じ話をしている人がいたら、よっぽど興味がない限り読まないだろう――人は感動だとか知識だとかなんだとかを得るために文章を読むのである。文章は道具だ。
  •  感動は動機付けやら気晴らしやらなんやらになり、知識は必要を満たす。知識は増大する。気晴らしは退屈を忘れる。人は知識を増大させるために本をたくさん読もうとする。気晴らしは自然、遅読になる。