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にんじんと読む「生き方について哲学は何が言えるか(バーナード・ウィリアムズ)」🥕 第一章&第二章

生き方について哲学は何が言えるか (ちくま学芸文庫)

良き人生について―ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵

ニコマコス倫理学(上) (光文社古典新訳文庫)

 

 

第一章 ソクラテスの問

 ソクラテスは問うた―――「人はいかに生きるべきか?」。哲学はこの問いに答えられるし、生活の指針を与えることができる。プラトンからはじまり、多くの哲学者たちはそう信じてきた。果たして本当だろうか。この問いは非常に特殊ななにかをもって私たちに迫って来る。いくつかの事実をまず指摘しておこう。

  1.  まず第一に「さぁ何しようか」というような日常的なものとはまったく異なるという点である。この問いは時間を超え、私たちに自分の人生全体を考えるように促す。また、この問いは個人を超え、「私」に限らない「人」について一般的に答えるように促す。それは生活様式であり、一生涯の思考である。
  2.  次に、私たちはこの問いに答えるにあたって、実際に行為するまでのあいだにゆとりが与えられているという点である。私たちは最終的には「さあ、ここでどうしよう」という問いに結論を与えるのだが、ソクラテスの問いは急を要するものではなく、熟慮の時間を与える。逆に言えばそれを反省するように促す点において、ソクラテスの問いは「人はどのような形で生きることに最大の理由を見出すか」を意味している。さらに穿っていえば、ソクラテスの問いは、なんらかの理由がなんらかの理由に優先するというようなことを一切前提していないということだ。この点は「私たちはどんな義務をもつか」といったような問いと比べてみるとわかりやすい。

 超時的であるということは、私たちは特定の時点におけるこの問題の問いを探し求めているわけではないということだ。「ある時点、ある状況において、あなたはどうしますか」と訊いているわけではない。私たちはソクラテスの問いによって、自然に長期的視座を持つことを余儀なくされる。

 ソクラテスは私たちに反省を促す。その点で、彼は「反省」ということに重きを置いている。彼は誰もが反省という営みをするとは信じていない。彼が信じていたのは、それが「よき生」と呼ばれるような生ならば少なくとも部分的に反省というものを含まねばならないということである。つまり、反省のない生は生きるに値しないと言っているのだ。この点に気がつけば、私たちは「反省してどこまでたどり着けるかな」と問うことと同時に「なんで反省しなくちゃいけないわけ?」と問うことができることにも気づく。

 ソクラテスの問いは、その答えとしてまったくなんでも受け入れてしまう懐の深さがある。「いかに生きるべきか」とは迫って来るが、「道徳的には」とは付けない。そこで最高に自分勝手に生きる道を選んでも、やはりこの問いについてのひとつの答えにはなるだろう(誰も採用しないだろうし、自分勝手に生きるべきだと一般的に他の人にまで言及しているのだから、他者についての考慮が自然に含まれてしまうのだが)。ソクラテスはよき生を送るのは善人にちがいないと信じていたようだが、少なくともそんなことがわかるのは後になってからの話である。

 

 哲学者のなかにはこのように言う人々もいる。つまり「いかに生きるべきか」という問いは極めて多義的であるからして、「〇〇的観点からすれば」という風に意味を限定しなければならない、と。この考えは間違っている。

 たとえばあなたが父親だとしよう。息子のためには日本に留まらねばならないのだが、しかし、画家として大成するためにはフランスに渡ったほうがよいとしよう。父親という観点からみれば日本に残り、画家という観点からみればフランスに行くのがよいのだがさてどうしようとなったときに下すべき判断は、そうしたいろいろのことをひっくるめた判断である。ソクラテスが訊いているのはまさにそういうことに他ならない。考慮すべきことがたくさんあることも、個別に答えられることなどもわかっているが、そのうえで何を選ぶんですかと訊いているのだ。

 考慮という点からいえば、哲学というものは伝統的に還元主義的な立場をとってきた。たとえば倫理的・非倫理的考慮というものを考えてみよう。カントは道徳規則に従うものが倫理的だと考えた。そこで道徳規則に従わないものはどう考えたかというと、一切を利己的なものだとしたのだ。つまり、非倫理的考慮をひとつの類型に押し込めてしまった。この傾向は落ち着きを見せているが、今でも変わらないのが、倫理的なものをひとつ取り上げて、その一つをもって他のすべての倫理的なものを説明してやろうとする立場である。たとえば「義務」といった概念がそれである。また、倫理的なものに限らず、すべての考慮をより基本的なものに還元しようとする考え方もある。

 二つの考慮を比較するためにはどっちかをどっちかに還元するか、第三の考慮を取り出してきてそれをものさしにしてそれぞれを説明するかしなければならないと考えている。これはもはやそうしなければならないとさえ考えられているが、特段の根拠があるわけではない。父親的観点を画家的観点によって説明しなければならない理由はないし、父親的観点と画家的観点を比較するための特定のものさしなど必要としていない。

 私たちは「合理性についての合理主義的な捉え方の衝動」を持っており、単にこれは知的な誤りではなく、近代世界の社会がもたらす考え方のモデルなのである。私たちは「原理上すべての決定が、推論を用いて説明できる根拠に基づくものであることを要求する」。

 

 

 

実践理性批判 (岩波文庫)

完全解読 カント『実践理性批判』 (講談社選書メチエ)

実践理性―行動の理論について (ブルデュー・ライブラリー)

第二章 アルキメデスの支点

 ソクラテスは「人はいかに生きるべきか?」と問うた。前章においてはこの問いの答えとして様々なものを受け入れることができるという話をした。たとえばこの世の一切を自分のために働くものとみる極端な利己主義であっても、生き方のひとつとして数えられるほど懐の深いものである。

 しかし、ありがたいことにたいていのひとは倫理的な生活というものに一定の価値を置いている。それどころか大変な高い価値を置いていて、その生活を正当化しようと躍起になっているのである。そうしなければ非倫理的生活論者が押し寄せて来て我が家が押しつぶされるといった緊迫の様子なのだが、果たして、正当化することに一体なんの意味があるのかまったく見当もつかないのが実情である。モヒカン姿の世紀末男が研究室でコーヒーを飲んでいる学者先生のメガネを叩き壊すのを、倫理的生活の根拠と呼ばれるものは一切防御してくれないのだ。

 私たちは倫理的生活の正当化を与えることによって、その種の人々に「強制力」のようなものを働かせることを期待する。ところが少し考えればわかるように、向こうにはこっちの話に耳を貸す義理はないのである。逆に考えていただきたいのだが、もしものすごい非倫理的な生活が正当化されてしまいとんでもない毎日が合理的なものになってしまったとき、私たちのうちの一体誰がその生活に鞍替えするというのだろう。そりゃあ何人かはするかもしれないが、全員がそうだと考えることはふつうではない。

 結論としていえば、私たちの正当化は話を聞いてくれる内部メンバーに対して為されている。だとするとその議論が「強制力」をもつのだと信じるのも納得ができるだろう。プラトンはこの強制力というものを信じなかった一人であり、政治の力によって強制力に変えて行かなければならないのだとした。政治的な問題は、理性的な正当化を体現するように社会を変革することである。もしも既に共同体が倫理的だったなら、その共同体における政治的な問題は取締りではなく、絶えず根拠を提供することによってそのまとまりを絶えず作り出すようにすることとなるだろう。

 「理性的な議論というものができるなら、私たちはその人となんらかの倫理的生活の内部にいる」。このことはいつでも正しくないにしても(差し迫った状況なら話し合いもするだろう)、「一共同体のメンバー全員が倫理的生活の外側で生きてゆくことはできない」とはいえるだろう。しかし数人ならはみ出ることができる。そうして彼は、自らがどうしてこの生活にいなければならないかを問い、その正当化を求めるのである。この彼は別に倫理的生活入門希望者である必要はないが、希望者であるほうが都合はよい。ともかく彼は自らの行為・欲求・信念を振り返り、それらをもとにするだけで倫理的生活を送る理由があるのかを問うのである。彼のなかのなにが、倫理的生活を送る理由を形作るというのか――――これがアルキメデスの支点である。

 

 これについて或る論者は、そもそも「理性的」なら倫理的生活にコミットしてるはずでしょ、という。つまり道徳否定主義者だったり懐疑主義者であっても、理性的にそれを反省しているのだから議論はできるし、なんらかの倫理的生活を支持しているはずである。この道筋で進む哲学的冒険には二つのパターンがある。

  1.  アルキメデスの支点から出発し、そこから演繹していく
  2.  理性的な行為主体とはなんなのか、ということについてより確定的に論じ、そこから出発する。

 前者にはカント、後者にはアリストテレスが代表する。彼等もまた、「この命題が真だ。だから受け入れろ」とは言わない。あくまで私たちが理性的に行為することに関心を持ったり、人間的生活を送ることに関心をもっているからこそ、その前提があるからこそ、倫理的命題の正当化に挑むのである。

 

 

幸福と人生の意味の哲学

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  • 作者:山口尚
  • 発売日: 2019/05/20
  • メディア: 単行本