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にんじんと読む論文「科学の’進歩’と’合理性’」

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 科学はなぜ反証可能でなければならないのか。

 私たちは「カラスがみんな黒い」ことを証明できない。なぜなら個別のカラスからカラス全体のことなどどうあってもわからないからである。ゆえに、『いかなる認識も真なるものとして根拠づけることができない』

  •  だが白のカラスが一匹でもいれば、「カラスがみんな黒い」を間違っていると叩き出すことができる。つまり私たちにできるのは反証することだけなのである。反証可能性が大きいということは、間違っている言明をさっさと棄却して次に進むことができるということでもある。
  •  反証しうるというのは、論理的に観察可能ななにかと矛盾するということである。だから理論は「そういう観察はできません」という言明の集まりなのである。反証不可能な理論は真だから反証不可能なのではなく、観察という経験的な内容が一切なく、私たちとはなんの関係もないからである。

 ポパーの「合理性」は、反証して次に進んでいくという科学の「進歩」により規定される。研究者は常に自らの理論・仮説に疑問を持ち、反証の努力をしなければならない。だがクーンによって批判されてきたように、科学史ポパーのいうように推移してはこなかった。クーンは理論というものが反証によって進むどころか、別に矛盾していても進み、別の理論によって打ち倒されるまで生き残ると言った。だがポパーはそうした例があることを認めながらも、それは科学的態度ではないし、危険なのだと強調する。彼にとって重要なのは、歴史と自分の方法論の不一致よりも、科学者の認識の目標がブレてしまうほうである。

 ラカトシュポパーの方法論を修正して、クーンの考えを説明しようとする。反証は観察によってもたらされるが、そういえば観察も反証可能である。とすると、理論が観察と矛盾するのは理論の責任であるとは限らない。手持ちの理論と矛盾するだけでなく、他の理論とぶつかって旧理論を叩き出してもらわないといけない。説明力の大きい理論によって整合的に説明してもらえれば、理論の反証になる。ここに理論の連鎖系列が生じる。この理論系列は中心にある固いコア言明とそれを守る保護言明を適宜修正する流れでゆるやかにつながっている。ラカトシュはこの転換が説明力を豊かにしていくことを「前進的」、その場しのぎの転換に過ぎないなら「退行的」と呼ぶ。ラカトシュはクーンの科学革命をこの流れの中に位置づけた。クーンは革命を社会・心理学的過程として、ラカトシュは合理的過程として説明しようとしたという違いはあるものの、ポパーの反証概念を修正してクーンの考えを取り込んだ。

 ラカトシュによってもたらされる図式は、当然、前進的なものを受け入れ、退行的なものを排除するという規準を招くように思われる。だが彼は退行的なものがあとで復活する可能性もあるためにこの考えを採らない。プログラムを排除するためには単に退行的というだけでなく、それよりも説明力の強力なライバルの存在がなければならないと考えた。理論の「前進」が説明力の豊かさによって方向づけられるのはそのためである。だがよく考えてみると、新理論というのは支配的な理論よりも歴史が浅く、説明力は弱いのが普通である。ラカトシュはこの批判を受けて、若い理論は強力な確立されたライバルとの比較を少しの間やめてあげるべきだと応じた。言っていることはもっともだが、廃棄されたほかのプログラムも、同じように将来の可能性に期待して保護してやるべきではないのかと思える。退行的で競合に説明力で負けるという理論は、別に叩き出されなくてもよいらしい、ということになる。

 ラカトシュの図式によってもたらされる科学の方法論は、なにが合理的な流れなのかを説明しない。これは彼も認めるところではあるが、合理的方法論でなくても、規範的方法論であるという考えは維持する。ポパーは「反証できるかもしれないぞ。批判的になれよ」というのが科学者の合理的態度であったが、ラカトシュにおいては科学者の態度について云々言う必要はない。理論転換が「進歩」であったことを示せればそれでよいのである。ラカトシュの科学は進歩が目的であり、進歩とはすぐれた理論への転換であり、その転換を説明する方法論が必要であった。彼はなにがすぐれている理論なのかということを説明できなかったが、こうあるべきだよねということは説明した。これが合理的ではなく規範的な方法論だという意味である。

 ラカトシュに求められているのはなんでその価値判断が正しいといえるのかということに答えることである。ポパーラカトシュも経験内容の増大が進歩である点には違いはないが、ラカトシュの場合は最終的に科学者たちの価値判断が大事なので、方法論がいくら「これすぐれてるね」と言おうが、科学者が受け入れたなら、間違っているのは方法論ということになる。科学の””合理性””は科学者の判断にゆだねられ、彼らの価値判断を受容しない限りうまくいっているとは言えない。彼らの価値判断を受容しないでも科学の合理性を問うことはできるのだろうか?