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にんじんと読む論文「人生はなぜ生きるに値するか」

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 ニヒリズムとは、生きることが無意味だという信念のことである。人生の有意味性は二つ区別することができる。ひとつは有意味性を特殊な価値だととらえることであり、ひとつは総称的な価値性質のことである。

  •  前者は、「関係的」である。人生が意味のあるものとなるのは、それがある特定の影響をおよぼした場合のみ、おそらくよりよい影響をおよぼした場合のみである。なんらかの職業を選ぶことがよい選択であるのは、それが興味深かったり儲かったりするからというだけでなく、その誰かを家族の伝統と結びつけるからでもあるかもしれない。人生の意味は、何をなしたかだ。だから道徳的な価値や幸福とは関係がない。自ら以外の何ものに対してもインパクトがなくても、人生は有徳でありうるだろうし、なんらかの意味で幸福でありうる。
  •  後者は、人生がもつことのできる特殊な価値について云々しているわけではなく、単純に、そもそも「人生はそもそも生きるに値するのか?」である。なにかを成し遂げたり、成し遂げなかったり、そういう特殊な人生のことではなく、どんな人生だろうが、そもそも生きる価値なんかあるのだろうか?

 ニヒリズムは後者に強く関係づけられたものである。ニーチェにとって、ニヒリズムとは「目標が欠けていること」である。厳密にいえば、目標とは、行為や過程によって引き起こされることを意図された事実状態を指す。そして価値とは、そのような事実状態が引き起こされるに値する理由を提供するものである。だからニーチェの言い方はあいまいだ。とはいえ、通常の用語法でもこれらは混ぜて語られる。ところでここで彼がいう目標は、別に達成可能でなくてもよい。たとえばキリストの再臨である。

 ニーチェニヒリズム概念を理解するためには、ある重要な想定を明示しておく必要がある。それは「ある目標が人生を生きるに値するものたらしめるのは、その目標が行為主体を生き続けることへと駆り立てる場合に限る」という想定である。目標が駆り立てる力を持つためには、(1)目標の価値に関する行為主体の評価、(2)実現可能性に関する行為主体の評価という二つの条件が必要であり、どちらかが満たされないと力を失う。すなわち、ニヒリズムは諸目標が価値を失うこと・実現不可能だという確信によってもたらされる(ニヒリズムの二つの源泉)。実現不可能性によって価値が失われるわけではないが、ニヒリズムには陥る。

  •  目標の価値は変化するものである。ここでニヒリズムを誘う無価値化は、本来それによって目標を支持していた当の諸価値にもはや同意できなくなり、目標には価値がないと気づくことである。たとえば「他人の幸福には道徳的に価値のある目標だ!」と思っていたが、そもそも道徳的諸価値などというものの価値に疑問をいだく場合である。他方、その目標を追求することが思っていた価値を実現できないという意味で、その目標を捨てるということもあるだろうが、問題となっているのは前者である。
  •  ある目標の実現可能性については、そもそもこの世界は目標の実現に適しているのだろうか、この世界には実現を可能とするような諸特徴があるのか、と問うことによって評価されるだろう。目標を妨げる諸特徴は、人生の特定の環境を変えればなんとなるのか、それとも必然的なものなのか? 

 まずは「俺が生きる意味ってなんだろう」というように、自分のしたいこと・やりたいこと・すべきことを表すもので、つまり道徳性や幸福といった概念と並置されるものとしての人生の意味である。だが仮にそういったものがはっきりしていたとしても、なお人生の意味について問うことができる。だからなんなんですか、と言うことができる。これはそもそも、生きるに値するのかしないのか、といったような包括的な意味である。

(ペシミズム)人生は生きるに値しない

 この主張には二つの意味がある。一つは、この現実世界では生きるに値しないという弱いもの。二つは、たとえどんな世界であったとしても、やっぱり生きるに値しないという強いものである。今わたしたちはたまたまこんなような世界に生きているが、たとえどんな世界に放り込まれようが、生きるに値しないと言うのである。論証はだいたい次のように進む。

  1.  倫理的な生は理性的な生である
  2.  実践理性による生が可能であるためには、世界が合理的でなければならない
  3.  世界は不合理である
  4.  倫理的に生きることは不可能である
  5.  倫理的に生きることはそうでない価値よりもつねに高い価値を持つ
  6.  最高の価値を実現できない生は生きるに値しない
  7.  あらゆる生は生きるに値しない

 人生にとって一番大事なのは、単に生きるということではなく「よく生きる」ということだよね。そんで、よく生きるというのは理性的に生きるっていうことだ。でも、自分の生きてる世界が理性的に生きられるような世界か考えてごらん。どんなに頑張ったって死んじゃうし、病気になっちゃうような世界だよ。君個人の話じゃあない。人類だっていずれ滅ぶし、地球だって吹っ飛ぶし、宇宙もなくなっちゃうよ。生きるってことはどこかしらの世界に生きるってことなんだから、どこであれ最後はみんな消えるよね。考えてみると、どんな世界でも理性的に頑張り続けるなんてどんな意味でも無理だよね、死んだり壊れたり邪魔が入っちゃう。ということはよく生きることなんかできないね。よく生きれないのに生きる価値なんかあるかな。ないよね。・・・

 一言で言うと「目標たててもどうせ死ぬぜ( ˙ᾥ˙ )」ということだろう。これを否定するならどこかしらで論証をストップさせないといけない。ここでは⑥を考えよう。最高の価値を実現できない生は生きるに値しないか? 実現しようと努力することが大事なのではないか。たとえば愛である。だれかを愛することは「愛しました」で終わるようなものではない。自分の愛しているものが愛するに値するかどうか問題になることはありえる。愛は不安定なもので、時には正当化が必要になる。愛するというのは愛し「続ける」ことでもある。努力が必要なのだ。愛でなくとも、実現する努力こそが大事ということはあるだろう。

 「まぁ滅ぶかもしれないけどね」といいながら、世界を少しでも住みよく変えるように努力し続ける道を選ぶのもひとつの道である。なにかの病気の薬が開発され、苦しむ人が減る。その技術を後世に伝えていく。いずれ人類は滅ぶかもしれないが、滅ばないように整え続ける。決定的な回避にはまったくなっていないが、ひとつの考え方ではある。

 

※ 実際の論文は、哲学者フッサールを彼自身の理論によってペシミズムから救う手だてを考えよう、というものです。多くの部分をかなり省略して、にんじんの興味のある部分だけをまとめています。

※レジンスターの著作「生の肯定」が2020年に出版されています。⇩