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にんじんと読む「哲学がわかる懐疑論」 第一章

第一章 懐疑論とは何か

 「懐疑論」とは、疑念を抱くことである。何かについて懐疑的な態度をとるとは、それについて疑念を抱いているということである。つまり、問題の物事を信頼してよいものか不審に思っている。懐疑論を程度をわきまえさえすれば、多くの場合よいものである。程度のよいものを「健全な懐疑論」と呼ぶ。健全な懐疑論は特定の物事だけを懐疑する。だがそれは簡単に、「過激な懐疑論」へと変貌する。過激な懐疑論は、根拠や知識を根柢からぐらつかせる。もし過激な懐疑論は出回れば、正しいこととして受け入れられることは何もなくなり、口から出まかせを言ってもお構いなしといった態度にお墨付きを与えることになる。

 私たちの判断はいつも誤りうる(可謬性)。この可能性は、どんなに正しそうに見えているものでも疑ってかかる理由を与える。その意味で、可謬性は懐疑論を正当化しているように見える。しかし、可謬性に訴えるだけでは自分たちの信念が真であることに対して懐疑的な態度をとるべき正当な理由にはならない。そこには個別具体的な理由が必要なのだ。たとえば科学理論を考えてみても、十分に検証されているものは誤っている可能性があるとはいえ、疑うべき特別な理由はもはやない。

 ここに懐疑論相対主義の決定的な差がある。懐疑論は「お前の信念には理由を欠いているな」と言うのが目的であって、当の信念が正しいかどうかとは関係がない。一方、相対主義は「みんな正しい」という。二つはまったく無関係なのだ。