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にんじんと読む「デカルト『省察』の研究(山田弘明)」🥕 第一章まで

第一章 デカルト的懐疑の意味

 デカルトの懐疑は、真理発見の方法としての懐疑(方法的懐疑)である。しかし、実はここには単なる方法以上の積極的内容を有しているのではないかと考える。そこで改めてデカルトの懐疑の意味を追求してみよう。

普遍的懐疑

 デカルトは「一生に一度はすべてを根こそぎくつがえさねばならぬ」と言っている。しかしこの言葉通りに「すべて」を疑うことはパラドックスを引き起こす(自分の主張も疑うことになるため)。だからもちろんそれは<懐疑を徹底的に遂行せんとする強い決意の表明>にすぎない。

 では一体なにが、懐疑から免れるのか。

  1.  実生活に関わることがら デカルトの診断によれば、古代懐疑主義者は実生活のことがらも疑ったので不都合に陥った。彼が疑うのが真理探究にかかわることだけである。
  2.  言葉の意味や使用規則 これを疑うと何もしゃべれなくなる。感覚、夢、思惟、確実性、懐疑……といったような意味内容も把握されていなければならないが、<それらは論理的定義を俟つまでもなく、それ自体として自明な「最も単純な概念>である。
  3.  理性の教え これは「さしあたって」懐疑を免れる。いずれ理性的推論が正しいのはなぜかという問いに答えなければならないときがくる。

 命題は疑いうるが、命題を構成するエレメントやルールまで疑うことはしないのえある。普遍的懐疑の趣旨は手当り次第にすべてを疑うことにあるのではなく、先入見を除去することにあったはずである。

デカルト『省察』の研究

 

感覚への懐疑

 感覚を疑うことは古代からふつうのことである。たとえば錯覚などで感覚が誤る場合があるのをわれわれは知っているからである。しかし一方、「感覚をすべて疑う」などという試みが成功するのかという疑問もある。というのも、<感覚そのものは何も謝らないという議論はありうる>からだ。感覚が誤る、というのはどういうことなのか?

 たしかに、星を見ているとき、あの星という現われは真であろう。しかし『外界にそのとおりに実在するか』といえばもちろんそうではない。星は既に消滅してしまっているかもしれない。つまり誤謬がおこりうるのは、外界と結びつけようとしたときである。

 そういうわけで、デカルトは感覚のすべてを疑うことに決める。

つまり正しいと思われる知覚でも実は間違った知覚(錯覚)であったということがしばしばあり、それを理由に感覚の証言はこれをすべて信憑性なしと見做すということである。これをいわゆる錯覚論法(Argument from illusion)ではないかと言われる。

デカルト『省察』の研究

  錯覚論法の難点は次の二点が指摘されている。

  1.  感覚が時として誤るという特殊なケースを不当に一般化しようとする乱暴な十把一からげ論である。
  2.  感覚が間違うという場合、同時に正しい感覚知覚とは何か(その判別基準)が少くとも知られているはずである。ならばその基準によって間違いを訂正すればそれで十分であって、なにも感覚を全面拒否する必要はない。

 しかしデカルトは別に、特殊なケースで駄目だから全部で駄目だ、といったわけではない。こういうケースがあるので真とか偽とかいうのはちょっとやめておこうと言っているのである。すべての感覚を排する判断を本当に下すのは「夢」を使った議論に入ってからで、出発点においてはこの反論はあたらない(1)。

 そして、どの知覚が正当なものかどうか、少なくとも今の時点ではまったくわからない。たとえばここからみれば丸に、あそこからみれば四角に見えるという場合、どちらが正しいのかなど決められない。同じように、水中で棒が曲がっているのが正しいのか、それとも出してまっすぐ見たのが正しいのか、現段階ではわからない。感覚は状況に応じていろいろな現れ方をするので、これが正当だと判断することができないのだ。

 ゆえに、錯覚論法への批判によってデカルトを批判するのは筋違いである。

 

 デカルトが提出するより強い感覚への懐疑は「夢の仮説」である。

  1.  われわれも夢の中では、狂人が目覚めているときに夢想するのと同じかそれ以上の真実らしからぬ夢想をする。
  2.  その例として、実際は服を脱いで床の中で横になっているのに、服を着て炉辺に坐っている夢を見ることがある。
  3.  だが今は明らかに醒めた目で髪を見たり手をのばしたりしている。眠っている人にはこれほどはっきりした意識はなかろう。
  4.  だがわれわれもそういう考えに夢のなかでかつてだまされたことがある。
  5.  要するに、覚醒と睡眠とを区別しうる確かな標識はない。

 この論証手続きは正当なものだろうか。(A)「夢と覚醒とは質的に十分区別できる」という反論は、ただ③を主張しているにすぎない。(B)「熟睡しているときに今私は眠っていますと言えないのと同じように、夢を見ている際中に今私は夢を見ていますとは言えない。それゆえ、夢か現かを問うてその区別を立てること自体がナンセンス」という反論は、的をはずしている。「夢を見ているときに夢として意識できるか」と訊いているのではなく、「夢における知覚経験が覚醒時におけるそれと事実上区別されないのではないか」と訊いているのだ。

 

 感覚を疑うことについてのデカルトの特徴としては「懐疑の仮説性」を挙げることができる。すなわち、

たとえば天も地も実在しないと判断するのではなく、私に見えている天も地もないのではないか、夢まぼろしではないのかと仮に想定してみるのである。

デカルト『省察』の研究

  それは十分考え抜かれたものであっても、以後いかなる変更も許さないものではない。よりよい理由が出て来れば変更もありうる。<それはあたかも、幾何学者が問題を解くに当って補助線を想定したり、天文学者が現実には存在しない赤道や黄道を仮構するのに等しい>。

 

 

デカルト『省察』の研究

デカルト『省察』の研究

  • 作者:山田 弘明
  • 発売日: 1994/02/01
  • メディア: 単行本