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まとまりなく論証について(日記)

2023.6.5記

 ソクラテスが哲学者として語られるとき、それはソフィストたちとの対比において用いられている(哲学の誕生: ソクラテスとは何者か (ちくま学芸文庫))。それはつまり人を説得するための弁論を振りかざす人々であるソフィストに対して、哲学者というものは「本当のところ」を求めて探求するのだということだ。この伝統にならって、哲学者というものは「本当」をいつも意識しており、その本当を主張するにあたっては相手から「なぜなぜ攻撃」を食らうので、いつも論証をも意識してきた。曰く認識とは、真なる命題を、その根拠の把握とともに判断することであるとされる。哲学の方法という点で、根拠であるとか論証ということは根本的で、欠かすことはできない。この点を除けば哲学ではなくなってしまう。

 ところである命題を論証するとはどういうことか。なぜ前提が結論を「導く」のであるか。これはひとつの問題である。日常言語はあまりにも煩雑なので、形式言語によって論証の妥当性というものを定義することになる。だがそもそもなぜそういう定義にしたことが正当化されるのかについて、その形式言語がなにかを語ることは無い。本当に知りたいのは、そこなのだが。

 物事をいちから考えようとする試みはデカルトのものが有名だが(方法序説 (岩波文庫))、数学を模範とした演繹的な学問体系を仮定した点でデカルトは不徹底だったと指摘した一人はフッサールであった(デカルト的省察 (岩波文庫 青 643-3))。さらにアメリカのプラグマティストで有名なパースは、根拠の根拠の根拠……という鎖の果てにあるとされる「無前提の認識」=「直観」を拒否した。そして数学的方法の模倣によって、日常の認識も論理的に厳密化し確実化しようとする試みを攻撃する。

 さて、本当のところを求める哲学者の目的は、真なる命題を、その根拠の把握とともに判断することであった。ゆえに「根拠」についてはよくよく考えておかなければならない。何かを知るというために根拠が必要で、もし私たちが少なくともひとつなにかを知っているのであれば、基盤的な信念は存在していなければならないことが論理的に帰結する。基礎づけが攻撃されたときに覚える不安はこうしたことに関する、まさに直観に、由来することであろう。そんなこといわれてもな、という感じ。しかし単純な基礎づけ主義を支持することはもはやできない。私たちは何も知らないというべきなのか。それとも私たちはなにか思い違いをしているのか。懐疑論に陥りたくないなら、思い違いをしているほうをとるしかない。

 理論というものには二つの役割がある。

 第一には、「からの~?」役割である。ある理論からこうではないかと進んでいくためのものだ。その理論によればこうである。こうであるとすればこうではないか! そして実験し、その事実を確認したりする。そして第二には、理論はなにかに根拠づけを与える。「なぜかっていうと~?」役割である。

 デカルトのように初めからなにかを始めようとしても、実は結論は決まっている。たとえばおさかなくわえたドラ猫が家から逃げ去っていったとしよう。めちゃくちゃ早い。追いかけたが、もう三軒も先へ行ってしまっている。別になにをいわれなくても、このことは絶対に確かであると思われる―――そのドラ猫はいま家にはいない。このことは絶対に正しい。いま逃げたやんけ! いたらおかしい! もしなにか理論がこのことを覆し、実は猫は家にいるのだと結論したら、それがどれほど論理的であったとしても間違いなのである。経験的なチェックが必要なのだといっているわけではない。私たちがなにを真理と呼ぶかはあらかた決まっている、と言っているのだ。「前理論的真理」である。

 さてここまで言っておいてあえていえば、前理論的真理は、正しいとは限らない。それが示すものは、私たちがなにを正しいと呼ぶのか、である。この研究は理論形成にあたりきわめて重要な役割を果たすことはいうまでもない。なぜなら理論は前理論的真理を撃ち抜くように作られるからだ。正しそうに見えて、実は正しくなかったという例を私たちはいくつも知っており、デカルトがそもそもいちからなにかをはじめようとしたのはそのためであった。いま、課題は真理ではなく、前理論的真理に向けられている。そしてこれは経験的に判明する事柄でもある。

 もし私たちのうち誰かが「体系化するぜ」と意気込んだとしても、その人一人程度の見識で真理にたどり着くことはまったくありえない。もしそんなことができるとすれば、彼はあらゆる観点からの物事の成否を既に知っていなければならない。しかし彼は知らないからこそ、いちからはじめようとしている。たくさんの思い込み、特に演繹的体系こそ優れているのだとか、そもそも哲学するのがいいことだとか、そういう偏った考えを抱えて。勉強を頑張った私たちが最後に見るものは、これまでの時代を反省したところのこの時代の真実であろう。それは反省を踏まえている点で接近はしているが、無限の可能性の前に「すっかり明確」というわけにはいかない。しかしこうしたことを重ねて、人はいろんなことを実現してきた。そう、人は。個人ではなくね。この意味で目指される真理は共同作業であり、同時に、たどり着けぬ夢である。