第一章 ”学問の基礎づけ”とは何か
フッサールの現象学はデカルトの描いたモチーフを徹底させたものだという。つまり『哲学するための確実な疑い得ない地盤』を本気で追い求める姿勢である。ところがデカルトは今や批判され尽くした人物であって、こうした『地盤』に基づく普遍的な学問構想を疑わしいと考えられてしまっている。そもそも哲学をする者としては、こうした地盤の存在こそ疑ってかからなければならないのではないかとさえ思える。
フッサールのいう地盤、つまり「基礎づけ」の意味ははっきりさせておかなければならないだろう。デカルトの場合、基礎づけは明確に土台を意味していた。つまり、どんなものであろうがそれが正しいならば、その正しさの保証を与えてくれるもの……それが基礎である。しかしフッサールの場合はそうではない。彼のいう「基礎づけ」とは、次のようなことである。:
〈ある学問はどのような「前提」のもとに成り立っているのか、その学問の「領域」ないし「対象」の特質は何か、そこでの諸命題の正当性(ただしさ)は何に由来するのか〉を理解すること
だがこの言い方では、まるで「学問が先にあってそこで基礎づけ作業を行う」ように見える。実のところ、学問という営み自体が基礎づけの要求なのである。
基礎づけられたAがあったとして、それをもとにBを基礎づけるのはわかりやすい(間接的基礎づけ)。問題なのは最初のAの基礎づけがどう行われたかだろう(直接的基礎づけ)。それはたとえばこのように行われる。「隣の部屋にホワイトボードがあったな」という推測は、じっさいに隣の部屋を覗き確認することで基礎づけられる。小難しく言えば、ホワイトボードがあるという事態が現前している。この事態の現前を明証と呼び、この明証が判断を充実させるので、基礎づけられたのである。
当たり前だが、こんな明証は簡単に疑うことができる。光の加減でホワイトボードに見えたり、部屋を間違えていたり、思い違いをしたり、色々なケースがあるだろう。だが間違うことがあるということは、明証によって基礎づけているという事実を否定するものではない。あぁそうか正しいね、となるとき、明証によって判断を充実させているのである。
明証を与える作用は二つある。「経験的直観」(知覚)と「本質直観」である。
本質直観が少しわかりにくい。たとえば三角形の内角の和が二直角であるという判断はどのように充実させるのか? それはすべての三角形において成り立つ判断である―――私たちはこのようなとき、頭の中に図を思い描き、たしかにそうだったと納得する。たとえば三角形の底辺に平行で、頂点と交わるような補助線を引いた図を思い浮かべよう。この単なる知覚することとは違う、””一般者””についての直観を本質直観と呼ぶ。
【基礎づけの二側面】
学問と基礎づけが不可分であることは納得していただけると思う。
学問とは「こうでしょ?」といって、みんなの同意を得ながら進んでいくものである。ある判断は、「こういう夢を見たんだ」などといった妄想によってではなく、(そういう夢を見たにしても)「こうでしょ?」というナニカを提示することによって導かれるのだ。つまり基礎づけだ。
学問に限らずなんでもそうだろ、と言いたくなるが実際はそうではない。ある時代において、真理というのは教会に独占されてきた。正しいことは権力者が決め、学者はそれを正しいものとして取り扱い、どう正当化するかに苦心したのだ。しかし学問の営みは一人ひとりが参加し、「こうでしょ?」「そうだなあ」と言い合うことができた。
これはフッサールが「基礎づけ」において目指す、「万人に対して妥当」という側面である。そして彼はもう一段、””哲学””には上の要求をする。学問すべてを取り仕切るためには、その基礎づけは究極的なものでなければならない!
よのなかには色々な世界像がある。デカルトが世界中を旅をして考えたのは、人間に確信を与えるものは結局のところ習慣や先例が主だということだった―――自然科学はそのなかでも論証や実験によって万人から同意を調達してくるものだが、しかし果たして、どんな世界像を持ったひとにも認めずにおれないものなのだろうか?
つまり「万人」というところをデカルトは徹底し、別の世界観に生きる人のことも念頭におきながらデカルトは思索した。彼が方法的懐疑といってすべてのものを疑ってかかったのも、こうしたことが念頭にあったためであろう。そしてデカルトが「我(コギト)」という基礎を発見したと悟ったとき、そこでいう「我」とはさまざまな世界観をもったそれぞれの「我」であったに違いない。そうしてデカルトはその我に従ってこの議論についてこいと言ったのだ。
ここで大切なのは、デカルトがはじめた新たな前提に気づくことだろう。「ほら、こうでしょ。君にもわかるよね。そうするとこうでしょ。わかるよね……」というのは、互いの意識体験を報告し合うことだ。だが、相手の意識が自分と同型であることなどデカルトは一度も前提しなかった! 彼はその意味で、新たな前提のもとに「意識に定位した哲学」を始めたのである。彼の哲学において「他我」というのは根本前提なのだ。
以上をまとめれば、なんであれ判断は基礎づけを求めるものであり、そして同意を求めるものである。しかしそれは他我という根本前提があるからこそできる哲学なのである。私たちは他我の存在を論証することは原理的に絶対できない(基礎づけできない)。このようなことは他我だけでなく、いろいろなことにも言えるだろう。問題なのは、原理的に絶対に証明できないのになぜかそれを疑えないのは何故か、である。
無自覚にも、人々はこれを意識体験の反省によって答えようとする。というのも、相手に「こうでしょ?」と言うにはそれ以外方法がないからだ。だが自覚がないだけに、人々はなぜそれが他の人にもいえるのかという、「客観」の問題に悩むことになってしまった。
フッサールもまた、この意識体験の反省を徹底的に突き詰めた。そして「主観の外を考えるなんて無意味だ」と宣言することになる。意識の外にそれ自体として存在する客観についていくら考えても仕方がない。なぜなら真であるというのは、意識の内部で生じる確信にすぎないからだ。
フッサールは客観的現実を否定しているわけではない。誰も隣の部屋にいないからといって、ホワイトボードがないことにはならない。だがそのように確信するのも、客観的現実の存在を私たちが確信しているからに他ならない。
すなわち、フッサールが求めた究極性とは、何かを「正しい」といったときのその正しさの意味を理解することなのだ。いったい何に基づいてそのように確信しているのかをはっきりさせることが彼の課題なのである。
【第一章のまとめ】
学問と基礎づけは不可分のものである。学問のあらゆる判断は基礎づけを求める。これによって人々それぞれにとって妥当なものになっていく。
しかしその基礎づけは多くの前提を含んでいる。他我の存在、客観的現実の存在等々がそれである。私たちはそれを論証することはできないにも関わらず、存在を確信しており、疑うことができない。この確信が何に基づくかを明らかにすることが課題であり、そしてこの課題もやはり、意識体験の反省を記述し報告し合うことによって為されるのである。
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