宇宙開闢から時代は流れ、遂に哺乳類が生まれ、その一部がホモ・サピエンスへと進化した。彼らは故郷のアフリカを発ち、ユーラシア大陸を満たし、現在の日本列島へ歩を進める。
世界史的には、文字が使用されていない先史時代のうち、多くの道具を石で作った石器時代は旧石器・新石器時代に分けられる。前者は石を割って作った打製石器、新石器は打製石器に加えて石を磨いて作る磨製石器を主として使う時代である。
縄文時代は日本のみの時代区分であるが、磨製石器を用いていることから縄文時代は新石器時代に含まれる。とはいえ、大陸では新石器時代に農耕や牧畜が起こり社会が複雑化しはじめたことから新石器革命として特別視されるところを考えると、農耕や牧畜の存在が確実に確認されていない為、新石器時代には当たらないともいえてしまう。
そもそも縄文時代や弥生時代は、日本の歴史を語るために用意したもので、しかも戦後のものである。戦前はもっぱら「石器時代」と呼ばれ、その石器時代を縄文文化の段階と弥生文化の段階で分けたのだ。
縄文時代とその六時期
〈縄文文化〉とは、土器が出現した約一万六五〇〇年前から、灌漑水田稲作が開始される約三〇〇〇年前の日本列島各地において狩猟・採集・漁撈を主な生業とし、さまざまな動植物を利用し、土器や弓矢を使い、本格的な定住生活を始めた人々が残した文化群の総称で、この文化が展開した時期のことを〈縄文時代〉と呼ぶ。
- 草創期(およそ16500年前~11500年前まで) 旧石器時代の文化から徐々に縄文文化に移り変わっていく時期。
- 早期(~7000年前) 気候変動で環境が大きく変化し、定住生活の開始などの新しい環境への適応により、縄文文化の基礎がつくられた時期。
- 前期(~5470年前) 温暖化が最も進む。遺跡数、人口数なども増加し、早期の文化を発展継承して縄文文化が大きく花開いた時期。
- 中期(~4420年前) 100棟以上の住居からなる大型の集落の形成、人口が最も多くなり、さらに発展を拡大させていく縄文文化の高揚期。
- 後期(~3220年前) 気候が冷涼に。中期までの社会構造や精神文化などに変化を起こした縄文文化の変容期。
- 晩期(~2350年前) 灌漑水田稲作が開始される時期。
として以下、続けて行く。
縄文時代前夜。
周期的に温暖化と寒冷化を繰り返す地球において、現在のところ「最終氷期」にあたるのが今から7万年~1万年前である。海水面は低く、北海道・九州が大陸と繋がり、日本列島においても本州と四国と九州はひとつの島になっていた。寒冷化した土地では植物資源は少なく、動物の捕獲が主な生業になっていたと思われる。これを追いかけて北海道から、九州からホモ・サピエンスが流入し、又、海を渡って南から沖縄への移動があったことも知られている。
旧石器時代から縄文時代への変遷は、大枠において、「温暖化適応」にその要因があるといえる。そのため縄文時代の始まりは、これまで、土器の出現とその使用が重要な要素だと考えられてきた。というのも、温暖化によって植生が代わり、これを調理するために土器が必要になったと考えられるため、「温暖化適応」によく対応しているからである。だが最近の研究では、寒冷期には既に土器が出現していたことがわかっており(一万六五〇〇年前)、縄文時代のはじまりを温暖化適応の結果としての土器出現に求めることは無理である。が、土器出現を縄文時代の開始だと置くこと自体にはおかしなところは何もない。
- 土器出現をはじまりとするこの説は、土器というものの歴史的意義を大きく捉える立場である。
- 土器の普及を縄文時代のはじまりと据える立場もあり、第一説と同様に、土器の意義を強調する。この説で行けば、縄文時代のはじまりはおよそ一万五〇〇〇年前の温暖化が最初に開始された頃ということになる。
- そして第三には、縄文文化的な生業形態・居住形態が確立した段階に求める説がある。土器も重要だが、即、縄文時代というわけではなく、少しの移行期を設ける説である。すると時期的には定住生活が本格化する一万一五〇〇年前ほどになるだろう。これは定住生活と土器に画期を認める立場といえる。
では逆に、縄文時代から弥生時代への変遷はどうかというと、「水田稲作」の開始がその基準に置かれるのだが、最近の考古学界では、この時期が繰り上がった。これまで縄文時代晩期と考えられていた””突帯文土器””の出現の時期が、水田稲作の時期と重なることが炭化物の分析によってわかったからである。また、水田稲作は全国的に同時に始まったわけではなく、九州と東北では時期が大きく異なる。このように、縄文時代と弥生時代の変遷はかなりぼんやりとしている。
第Ⅰ期 土器使用のはじまり
旧石器時代から縄文時代への変遷を土器出現におくのは、土器の歴史的意義を考えればきわめて説得的である。土器づくりは多くの技術的要素から成り立ち、旧石器時代の粘土焼成や土偶製作技術が土器に至るまでには時間を要した。
技術力を結集してできた土器は煮沸具、つまり鍋としての意義が大きい。土器の長所は耐火性・耐水性である。煮るだけなら木製容器に水を入れ焼けた石を中に放り込む技術があるが一時的な煮沸であり、内容物の状態を確認しながら長時間煮込めるのは土器があったからこそである。土器による煮沸によって食料資源を多く利用できるようになった。たとえば硬い肉、草菜の植物繊維などである。また有毒物質の除去もできる。煮込むものの組み合わせによって多くの料理ができ、嗜好の多様化にもつながっただろう。
土器出現の頃(一万六〇〇〇年前)、気候は冷涼であった。まだ温暖化がはじまらない最初の1500年間をフェイズ1、温暖化がはじまった次の2000年間をフェイズ2、草創期の終わる一万一一五〇年前までをフェイズ3と呼ぶ。
第Ⅱ期 本格的な定住生活の確立
狩猟採集民における移動生活→通年的定住生活までの居住形態は、①フォレンジャー型、②コレクター型、③定住村落型の三つに分類される。フォレンジャー型はベースキャンプがなく、あったとしても短期間のうちに移動してしまう。コレクター型は一か所にキャンプを固定し、小集団を各地に派遣して資源を運び込んで利用し、そこで貯蔵を行う。このキャンプは季節によって移動することがある。定住村落型はコレクター型における定住性がさらに強まり、キャンプがまったく移動しない。
定住生活がなぜはじまったのかという議論は、たとえば西田正規の研究があり、当ブログでも取り上げたことがある(人類史のなかの定住革命 (講談社学術文庫))。移動生活の利便性を捨てて定住に向かうためには相応の理由がなければならず、普通に考えれば自然とはいえない。ともかく縄文時代の人々は定住生活をある意味強いられ、そのなかで移動生活の利便性を得るため、社会構造を複雑にしなければならなかった。
第Ⅲ期 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展
温暖化のピークはすぎた。人口は増え、資源も多く必要になり、社会もより複雑になってくる。こうしたなかで、一般の人々とは区別された「特別な人物」が登場してきた。
また精神文化の面からいえば、男と女からなる世界観が確立されてきた。縄文時代の遺物には男性性や女性性を象徴したものが多い。たとえば石棒が前者の例であり、土偶が後者の例である。男女の交わりをモチーフとした祭祀によって豊穣と再生産を促すことが信じられていたのだと推察される。
死生観としては、「円環的死生観」がみられた。この世のものはすべてあの世とこの世を循環すると考える思想は、縄文時代の根本的な死生観であり、土器棺墓や土器埋設遺構に象徴される。縄文時代の人々は土器を母胎の象徴として捉えており、遺体と一緒に土器も埋められた。土器の中にはたとえば遺体(子ども)を入れることもある。またイノシシやシカ、イヌなどの動物、木の実、黒曜石、石斧などさまざまなものが入れられる。それは「より多くあってほしいもの」であり、遺体の場合はまた母胎から生まれてくるものである。
第Ⅳ期 精神文化の発達と社会の複雑化
社会はより複雑に階層化され、祭祀はより発達し、土器は装飾性が薄れ合理的になっていく。