にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

経済学について

 経済とは、さまざまな経済主体が市場で財やサービスやお金を交換し合う経済活動を、ある仮説をもとにモデル化し、説明しようとする学問である(大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる (角川文庫))。あるいは、資源を効率的に配分する学問であるともいわれる(中高の教科書でわかる経済学 ミクロ篇)。

 このうちマクロ経済学とは、社会全体を対象としたもので、ミクロ経済学はその構成部分である個人や企業・産業・個別物品の市場ひとつひとつを対象としたものである(マクロ経済学のエッセンス [改訂版])。

 

 

 

経済学の対象の歪み

 まず、なにかある物が「財」であるとしよう。

 それが財であるといわれるための基本的な前提は、人間の欲望である。それは財である以上、欲されるものである。たとえばパンは財である。さらに踏み込めば、パンが財である以上、小麦粉・酵母・水・労働等々は財である。そして小麦粉のための小麦・ひき臼……こういったものも財であろう。たとえば小麦粉がパンを作ることにしか使えず、それでいてパン酵母が枯渇しているならば、小麦粉はなんの役にも立たない。つまりそのとき小麦粉は財ではないことになる。つまり、人間はこの因果関係を把握しており、当然、これも財を財とする前提のひとつである。この因果関係は状況に応じて変化し、小麦粉はいついかなるときも財であるというわけではない。

 次に、ある財が経済財であるとは、その財の支配可能な数量が必要量より小さいものである。つまり経済財とは需要が供給に勝る財であり、欲しがっているすべての人に与えられないパンである。あるいは、パンを作るのに足りない小麦粉である。人間はそうした経済財を用いて欲望を満足させるために、次の四つの努力を行う。

  1.  与えられた可能性の限度内で獲得(頑張って手に入れようとする)
  2.  劣化をふせぐ(いまあるぶんを維持する)
  3.  その支配可能量をもって満足させる重要な欲望とそうでもない欲望を選別する(どの欲望を優先すべきか考える)
  4.  合目的的に使用して最大の成果、あるいは最小の数量で一定の成果をおさめる(効率的に財を利用する)

 経済学の問題を配分の問題と考えるのは、四番目(最大化ー節約の原理)によるものである。これは一面的な見方にすぎない。

 そしてこのような財の獲得はすべて「市場」において行われ、そしてまた市場で手に入れる財もまた経済財であるとされると前提するのがひとつの経済モデルとしてあった。だが、カール・ポランニーが指摘するように、経済史というのは単に市場経済の発達史ではなく、人々が生命を維持するために生活必需品を獲得する方法や制度の歴史を含むのである。

 人間は欲望を満たすための物的手段を得るために自然に働きかける。人間は自然の営みを模倣して農耕文化を築いてきた。ポランニーは自然と人間との相互依存関係が持続するように制度化されるとき、そこには「互酬」「再分配」「交換」といった三つのパターンの統合形態が現れると考えた。たとえば隣接する農家同士の贈答やお手伝い・色々な方法で調達した食糧をコミュニティの長が働いてくれた人々へ分配する・市場での商品売買や労働力の売買などである。私たちにとってなじみ深い【経済学】は交換ばかりを分析しているが、互酬や再分配を分析するためには別のツールが必要になるだろう。

 

 市場の手は労働力や土地といった資本にまで及ぶ。あらゆるものが商品と化し、わたしたちは経済現象と市場現象がおなじものだと思っている。わたしたちの社会にあるすべてのものと、市場にあるすべてのものは見かけの上で完全に一致しているので、ここから「市場経済」、そしてそれに埋め込まれた社会であるところの「市場社会」という呼び名が生まれてきた。

 決定的だったのは労働力や土地といった資本にまで市場の手が伸びたことである。古来、人々は先祖から引き継いできた自分の土地を商品として扱おうなど考えもしなかったし、そこの土地に住まう働き手の農民たちもそうであった。土地や労働に市場がつく、つまりなんにでも価格がつくと、人々は自らが飢えないためにあるいは豊かになるために行動するようになる。そしてまたその行動様式が市場メカニズムを支えているのである。たとえば、ふつう市場というものはリンゴやらミカンやらを売っている。しかしそうした生産物が生まれるのは土地があってのことだし、育てる人がいてのことである。しかしそうした資本にも市場がついたことで、人はタダでビジネスするわけにはいかない。「まず借金ありき」である。

 

こうした市場システムに慣れさせられるにつれて、考え方も変わって来た。

  • つまり功利主義的実践、そして人間の動機というものについてのある考え方である。<日常生活を組織する誘因は必ず物質的動機から発生するものである>という見解を私たちは受け入れるようになった。言ってみれば「金のため」で、「金によって買えるいろいろなもの」である。このように書かれると、いや私たちはそうでない動機も知っていると反論したくなるだろうが、一方でそういう価値観が正しいのではないかと信じてしまう傾向が自分のなかにあるのも感じていただけるものと思う。
  •  また、社会の諸制度が経済システムによって決定されるという教説も信じられるようになった。あらゆる人間社会の共通法則、それが市場メカニズムなのだという妄想である。社会階級は市場メカニズムによって、所得などによって定まる。その他の諸制度、国家と政府・結婚と子どもの養育・科学と教育・宗教・職業選択・住宅様式・居住形態・私生活の美的部分などなどは市場メカニズムの作用を妨害しないように行われた。
  •  あるいは、私たちは「合理的」という言葉を歪まされている。合理的行動は、目的を手段に関連付けるものである。しかし目的がなんであるべきか、手段をいかにして選ぶべきかなどは、非常にこみいった難しい問題であり、「経済的に!」といくら叫ぼうがひたすらに空虚である、……はずだった。しかし目的については<功利主義的価値尺度>、手段については<効果を判定する尺度:科学>が、合理的なものとされた。言い換えれば、第一に公園でぼうっと鳥を眺めているよりもレジ打ちをしたほうが合理的であるし、第二に病気をしたときは魔術師よりも医師に診てもらったほうが合理的である、というわけだ。目的と手段の選択は「合理的に」行わなければ損をする。時間の無駄、手に入れられるはずだったバイト代の消滅……。しかし、それは合理的と呼ばれるいかなる普遍的資格も持ってはいない。

 

 

ベーシック・インカム

 ベーシックインカムとは、個人に対して、無条件・定期的に少額の現金を配る制度のことである。この根本的な目的は経済面での基礎的な保障を提供することだ。全面的な保障や裕福な暮らしを送れるようにすることなどは想定されていない(第一、そんなことは不可能である)。

 ベーシックインカム導入論者のあいだでも、どの程度給付すべきかについて意見が分かれる。時には給付を引き替えにあらゆる社会保障と福祉サービスを廃止すべきだと論じるものもいるが、それはリバタリアン的な考え方といえる。つまり、福祉サービスの停止はベーシックインカム導入のために必至というわけではない。たとえば導入時は段階的にきわめて小額からはじめて、増額し、水準を見極めたりするのも良いだろう。

 「無条件」であることはベーシックインカムという制度にとって本質的だが、①所得制限を設けない、②お金の使用に制限を設けない、③行動に制約を設けない、という三つの意味がある。給付を受けるために「ふさわしい」人など存在しない。国民などといった受給資格者はみなその資格があり、全員が無条件に給付を受けられる。

 また「定期的」であるとは、①一定期間ごとに、②わざわざ書類などに記入しなくても③一定額が、給付されることが望まれている。

 

  •  つまりベーシックインカムは最低所得保障という概念とは異なる。なぜなら所得がどうあろうが受給資格を満たす限り必ず一定期間内に一度支給されるものだからである。最低所得保障は一定額ではなく、保障ラインと実際の所得の差額が支払われる。
  •  ベーシックキャピタルとも異なる。ベーシックキャピタルとは少額ではなく、大きな金額を、一回限りで給付する。ベーシックキャピタル論者は大抵、一定年齢に達した人々に一回限りの給付を行うことを提案する。これに対する主たる批判は、「意志の弱さ」に関わる。つまり高額を一気に振り込まれると、リスクの高い投資に走ったり、無駄遣いをしたりして結局全額を失いかねない。

 

社会正義の手段

 BI(ベーシックインカム。以下同じ)の正当化にあたっては、「社会正義を実現するための手段になるから」という根拠が与えられることが多い。BIを導入すれば、「自由の確保」と「経済的な安全の提供」が与えられることも根拠の一つだが、「社会正義の実現」が非常に大きい。BIの議論をするとき、常に既存の社会的保護制度の代替案として語られてしまうがために、この点がまったく忘れられている。

 政策が社会正義を実現している、とはどういう状態だろうか。そして具体的にどういう社会正義を実現しているのか。

  •  トマス・ペインは「今日わたしたちが手にしている所得と富は、わたしたち自身の行動よりも、過去の世代の努力と業績による部分がずっと大きい」という考え方をする。社会の富とは共有財産なのである。ヘンリー・ジョージは土地が人類共通の遺産であるとみなし、土地が生み出す収入はすべての人が分かち合うべきだと考えた。/ こうした社会配当に基づくBI論の反対者は、「遺産の取り分を求める権利は誰にもない」と主張する。つまりそれを受け取る義務を果たしていない、ふさわしいことをしていない、という意味だ。しかしその論法でいけば、私的財産の相続も認めるべきではない。

 ジョン・ロールズが提唱した社会正義の原理(格差原理:最も弱い人たちの状況が改善してはじめて、その政策によって正義が実現できたと考える)を応用すればこうなる。:「政策が社会正義にかなうと言えるためには、最も安全でない生活を余儀なくされている人たちの状況が改善しなくてはならない」。これを安全格差原則と呼ぼう。BIは間違いなく安全格差原則を満たしている。

 

 ロールズは「公正としての正義」つまり「最も理にかなった正義の原理とは、公正に考えた場合に、誰もが同意し、受け入れるようなものである」としている。

 古典的な自由主義においては税制と福祉制度が公正であることを認めている。公正に考えれば、低所得者の税負担が高所得者よりも重くなるべきではないと誰もがわかっている。そうだというのに、このことはあらゆる国で踏みにじられている。所得の種類によって異なる税率が適用されていることもそのひとつである。日本は違うが、多くの国では労働による所得の税率が資産や投資の税率より高くなっている。つまり不労所得のほうが税率が低い。このことが富裕層をより富ませる。BIを導入すればこのギャップを縮小できる。なぜなら、労働による所得によって徴収できる税が下がり、不労所得の引き上げが行われるからである。

 また、BIは個人に給付されるものであるから、男女や年齢間、障碍者とのあいだの不平等を是正する道がひらける。あらゆる人に、均等に給付されるから、もし奪われていればすぐにわかる。無条件だから、誰かに負担を強いることもない。たとえば中南米諸国では、子どもを学校に通わせて健康診断を受けさせれば低所得者の母親に給付がなされる。しかし、条件を満たすために苦労するのは母親である。もしこれが父親でも同じことで、条件を課せば、その条件を満たすための労力が人によって違うのだから不公正が生じる。

 地球環境にも影響するかもしれない。BIによって労働にさく時間が減るのはもちろん、あまった時間を再生産の活動にあてることもできる。環境汚染は環境に金を使えない貧困層に負担が重く、BIはこのコストの一部を補償してくれるだろう。炭素の税金を重くすれば二酸化炭素濃度も減るが、これを現状のまま施行すると炭鉱労働者や低所得者層は経済的打撃をこうむる。BIを導入すれば、政治的に炭素税に踏み出しやすくなる。

 

 資力や行動調査、制裁、監視に基づく福祉制度が不正義を拡散する以外になにか意義深い結果を残してきただろうか?

 

 

ベーシックインカムへの道

ベーシックインカムへの道

 

 

ベーシックインカムと自由

 自由の拡大もBIのメリットとして挙げられている。しかし自由とはなんなのか。

 標準的な自由主義者にとって、自由にはふたつある。①制約からの自由、②行動の自由。自由主義者にとってBIはこれらを促進するひとつの候補である。一方、リバタリアン(経済だけでなく個人にも重きをおく立場。リバタリアニズム - Wikipedia)にとっての自由はこれとは異なる。リバタリアンは国家が個人の自由を制約すると思っているから、できるだけ「小さな政府」を望む。政府は必然的に人々の生活に干渉してくるからだ。リバタリアンのうちBIという制度を求める人々は、本来ならば国家には何もしてほしくないのだが、現実的にはそうはいかない。そこで次善の策として、BIが選ばれる。だから「BI以外は何もしてくれるな」という思想へ行きつく。

 リバタリアンが政府を不必要とみなすのに対して、共和主義は政府を必要とする。そこでの自由は支配されないことである。そして完全な自由とは、社会で最も弱い人でも支配を受けないことで、強者が権利を行使しても弱者が支配を受けずに済む状態のことである。政府の役割はそのような完全な自由を実現することである。この自由を実現するためには、手の込んだややこしい仕組みで「うまい」「へた」が分かれるような制度ではなく、無条件に資金が給付される制度が必要だ。つまりそれがBIである。競争は競争力のある個人にだけ報いる。

 

 いずれにせよ、BIはあらゆる種類の自由を強化する。

  •  困難だったり、退屈だったり、薄給だったり、不快だったりする仕事に就かない自由
  •  経済的に困窮している状況では選べないような仕事に就く自由
  •  賃金が減ったり、不安定化したりしても、いまの仕事を続ける自由
  •  ハイリスク・ハイリターンの小規模なベンチャー事業を始める自由
  •  経済的事情で長時間の有給労働をせざるを得ない場合には難しい、家族や友人のためのケアワークやコミュニティのボランティア活動に携わる自由
  •  創造的な活動や仕事に取り組む自由
  •  新しいスキルや技能を学ぶことに時間を費やすというリスクを負う自由
  •  ときどき怠惰に過ごす自由

 

 社会政策は次の二つをクリアしなければならないと考えられる。

  1.  パターナリズム・テストの原則:いかなる社会政策も、一部の集団に対し、その社会で最も自由な集団には課されていないコントロールを課す場合は、不公正と言わざるを得ない。
  2.  「慈善ではなく権利」の原則:給付する側の権力や裁量ではなく、受給者や対象者の権利と自由を拡大しなくてはならない。

 

 BIは二つの原則を満たし、あらゆる自由を拡大する。

 

貧困、不平等、不安定の緩和

 BIの根拠として挙げられるのは「貧困を削減する」というものである。お金を受け取るのだからその点は明瞭だが(もちろん反論は考えられるにしても)、もう少し積極的な説明を与えよう。

 さて、貧困の罠とはなんだろうか。私たちは普通、稼げば稼ぐほど、税金をとられるにしても儲かるには違いないと思っている。だから貧困の状態にある人にも「働ければいいのに」と簡単にいうが、しかしそれは貧困者の事情を知らないからである。福祉受給者が所得を増やして低所得者へ移行しようとすると、税金や社会保険料によってほとんど手元に残らない。だから、就労を妨げられている。これが「貧困の罠」。

 就労を妨げるのはこれだけではない。条件付きの福祉給付は複雑化しており迅速に給付が開始されることなどほとんどない。申請するほうも自分が条件にあてはまるか自信がないし、その調査に膨大な時間を費やす。一度出たらまた戻れるかわからない。戻れなければ悪くすると死ぬ。これが「不安定の罠」。

 

 ベーシックインカムはこの二つを同時に解決する。

 

 

 反対派は、低所得者層に金を渡すと無駄に浪費されると思っている。しかし実際のデータはそうなっていない。BIの試験プロジェクトでは、子どものための食糧や医療、教育など有意義な目的に使われる場合が多い。それに加えて、違法薬物やアルコール、タバコへの支出が減るのである。