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にんじんと読む「縄文人の文化力(小林達雄)」🥕

 日本列島に人々が移住してきたのはおよそ2万年前。この頃はまだ更新世氷河時代であった。氷河時代が終わり、完新世に至ったのが約1万3000年前。これを境に旧石器時代縄文時代に別れるのである。

 日本列島にいた人々は農耕や牧畜ではなく、まず土器を作り始めた。粘土を火にかけて水に溶けないようにする技術は旧石器の頃からあったが、それを容器にしたところに大きな意味がある。縄文土器のほとんどすべてが煮炊き用のものだった。

  •  石器と土器には大きな違いがある。石器はもともとの石を「削って」求めた形に近づけていくのに対して、土器は粘土を「増量して」カサ上げしていくのである。土器の製作使用は長く続いた旧石器時代文化と一線を画し、縄文文化の開幕を告げる、縄文革命の輝かしい標識だといえる。
  •  とはいえ、世界的にみれば、保有した道具の種類と技術という点からみると、縄文文化とそれ以外の地域との優劣はつけがたい。彼等の道具類は縄文文化固有のものではなく、人類の発展段階として普遍的なものである。すると土器は縄文文化形成の前提条件ではあったけれども、ただちに縄文文化の創造を意味するものではなかったといわなければならない。

 これによって彼らの食品リストに大幅に植物性食料が加わることになった。生で食べることのできない野菜、たとえば山菜などの多くは土器によって調理された。お米を思い浮かべてみれば、あれもまた生で食べることはできない。直火で焼けば野菜は燃え尽きてしまいかねないため、土器の中で汁と一緒に煮ることが「加熱」のためには優れた方法なのである―――土器発明の歴史的意義

 旧石器時代の主要な食料である肉は、当然動物であり、始終逃げ回っている。それに比べて植物は動かない。縄文人の食料の相当部分は植物性のものに切り替わった。食糧事情の安定化とともに「定住」が徐々にあらわれた。ムラの形成は老人や妊婦、子どもたちをそこに残し、文化を後世に引き継がせた。旧石器時代には遅々として進まなかった文化の歩みはリレー方式の体制が整えられ、進歩していく―――土器発明の歴史的意義(2)

 しかし縄文人たちはまだコメ作りには至っていない。縄文時代の三本柱は「狩猟」「漁撈」「植物採集」である。彼等は周辺の環境をよく知っており、なにかを取りすぎるとムラにとって良くないことを理解していた。多種多様な動植物を対象とし、生態系を崩さなかった。飢饉といった危機的状況はまったくなく、私たちがイメージするような未開で野蛮な原始的な社会では決してなかった。縄文人は栄養バランスが偏っていたと解説されることがあるが、少なくとも現代の私たちよりマシだっただろう。天候不順や冷害、干ばつなどの危機も被害を受ける特定の動植物以外のものを摂取することでしのぐことができた。食糧不足で悩むようになるのは、農耕によって自然を敵に回してからのことである。

  •  弥生時代のはじまりはおよそ3000年前。つまり縄文時代は1万年間続いたことになる。晩期には多くの仕事のひとつとして農耕が始まっていたが、弥生時代には米中心の生活となっていた。春に種をまいても秋まで収穫がなく、しかも必ずあるかわからない。稲づくりに追われ採集の時間などはなく水田作りに忙しくなった。頑張れば頑張るほど収穫量が増えるというのがまたよくなかった。人々の生活のほとんどはそうした仕事に占められるようになってしまった。ずる賢いやつが自分は働かずにラクして手に入れようとしたため(””権力者””、””支配階級””)、こうした奴らのためにまた必要な収穫量は増え、余計に生活は苦しくなる。農耕社会は狩猟採集社会より進歩したのだとみなされがちだが全くそんなことはなく、多くの人が飢えで命を落とした。現在も、飢えで苦しんでいる人のいる社会はほとんどが農耕社会である。人々は自然との付き合い方を忘れ、駄目だとわかっていてももう縄文時代には戻れない。
  •  弥生時代における土器は縄文時代の土器と比べて無駄のないデザインになっている。いちいち理にかなっており、余計な突起はない。逆にいえば縄文土器はわざわざ不便に作ってあるのだ。ここには用途一辺倒ではなく、縄文人の世界観が表現されている。弥生時代のものは工業デザイン的できわめて機能的であり、縄文時代のように土器をキャンバスとして扱うようなことはない。

 縄文時代の人たちが使っていた「道具」は主に狩猟・漁撈・植物採集に関するものであり、それらを獲得+調理するための道具、あるいは石皿など実用的なグループがまずある。そしてもうひとつのグループとして土偶、石棒、石剣、石冠、御物石器がある。私たちにはこれらがなんのためにあるのかわからない。第一のグループは見ただけで用途がすぐにわかるが、第二のグループは縄文時代の人々特有の信念をもってはじめて効果的な道具になるのである。言ってしまえば、これらは縄文時代の人々の思い込みの道具だった。土偶の手を破壊することによって自らの手が治癒されると信じていたのかもしれない。狩猟の役に立つと信じていたのかもしれない。

 とはいえ、弥生時代においては第二のグループの道具は忘れ去られた。このような「非実用」のものが再び使われるのは古墳時代(250年~538年)である。たとえば遺跡からは人を呪い殺す人形や土偶が出てくる。

 

 

縄文人の文化力

縄文人の文化力