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証拠の構造について(基礎づけ主義・整合主義)

証拠の構造

 信念Pを証拠R1という理由で正当化しよう。もしR1に正当化が必要ならばR2によって示されるだろうし、R2に正当化が必要ならばR3によって示されるだろう。こうした証拠の連鎖は次の四つのいずれかの構造を持つと思われる。

  1.  循環せず、どこかで止まる
  2.  循環せず、止まらない。
  3.  循環し、どこかで止まる。(R1…Rk…Rk…Rn)
  4.  循環し、止まらない。

基礎づけ主義

 常識的な感覚からは、認識的な正当さがそれ以上証拠の必要ない確実な事柄に基づいていると思える。証拠についてのこのような理解を「基礎づけ主義」といい、Susan Haackは『EVIDENCE AND INQUIRY』において次のように特徴づけている。:

(FD1) Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified independently
of the support of any other belief;
and:
(FD2) All other justified beliefs are derived; a derived belief is justified via the
support, direct or indirect, of a basic belief or beliefs.

 すなわち、(1)いくらかの正当化された信念は基礎的である。その意味は、他の信念からの支持を受けずに独立に正当化されるということである。(2)その他の正当化された信念は派生的である。その意味は、直接的あるいは間接的に、単数あるいは複数の基礎的信念によって正当化されるということである。この基礎的信念というものが確実で、絶対的で、修正されるということがありえないというところまで主張すると、より強い立場になるだろう(infallibilist foundationalism)。またその基礎について、経験的なものを据えるか、非経験的なものを据えるかによっても立場は区別される。:

(FD1-NE)Some beliefs are basic; a basic belief is justified independently of the support of any other belief; basic beliefs are non- empirical in character.

 これが非経験的な基礎を強調したバージョンで、たいていの場合想定されているのは論理的な、数学的な事実である。あるいは、

(FD1-E)Some beliefs are basic; a basic belief is justified independently of the support of any other beliefs; basic beliefs are empirical in character. 

 

 これが経験的基礎づけ主義である。経験的基礎づけ主義は、正当化される信念に「程度」があることを明らかに許容している。そこで私たちとしては基礎的信念の正当化に決定的なものを求める強い意味での基礎づけ主義と、他の信念が部分的な正当化を与えるという弱い意味での基礎づけ主義に分けることができる。

 すると派生的信念にも当然区別が生まれる。つまり派生的信念が完全に基礎的信念で正当化し尽くされるというPureな立場と、部分的な正当化を与えるだけということもありうるImpureな立場である。

 また、経験的基礎づけ主義はさらに細かく三つのタイプに分けられる。

 

  • Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified, not by the support of any other belief, but by the subject's experience
  • Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified, not by the support of any other belief, but because of a causal or law-like connection between the subject's belief and the state of affairs which makes it true
  • Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified, not by the support of any other belief, but in virtue of its con- tent, its instrinsically self-justifying character

①経験主義的 基礎的信念は正当化されているが、それは他の信念によるのではなく、知覚的とか想起的とかといった経験によるものだ。

②外在主義的 基礎的信念は正当化されているが、それは信念を持つこととそれを真にすることとの間の因果関係・法則によってである。

③自己正当化的 基礎的信念は正当化されているが、それは基礎的信念自体が持っている内容によるものだ。

 ここで見て取れることは、外在主義的・自己正当化的なものは正当化というものを当人の経験とは関係のないところで説明することである。自己正当化的な説明ではその信念自体が問題となり、外在主義的な説明では正当化を世界の事態と結びつけている。

基礎づけ主義の問題

 最も自然な経験主義的基礎づけ主義で考えれば、基礎的な信念は「ゆうべ、君を学校で見たよ」といったようなものだろう。だがより慎重にいうならば、「それは君に見えたよ」というべきだ。つまり基礎的な信念は単純な事実というよりもその事実についての直接的把握というべきものである。見えたのが誰かはわからないが少なくともそれが君に見えたのだということは疑うことができない確実なことである。

 しかしこのように捉えることには問題がある。一言で言えば、直接的把握などという信念内容を一切持っていないものが、どうして信念を正当化できるのか理解できないからである(もし直接的把握が「君に見えた」というように具体的な信念内容があるならばその内容が真であることを示す必要がある)。目の前に白い箱のようなものが見えるからといって、目の前に白い箱があるという信念をいったいどう正当化するというのか?

 認識論的には、別の学問に問題を譲り渡すことができると主張しうる。つまりなんにせよ「白い箱が見える」から「白い箱がある」に移るのだからその詳細なメカニズムの分析は他に譲って、ともかく直接的把握を基礎にしようではないかと提案するのだ。ところがこれもうまくいかない。白い箱にぽつぽつとまだらがついているとしよう。一見したところではその個数などは常人にははっきりしない。しかしサヴァンなどの特殊な人々はこれを48個と明確に応えることができる。つまり直接的把握の段階で信念の信頼性に差が出ているのである。そうすると「まだらが35個入った白い箱がある」という直接的把握を基礎とすることはできない。現にそれは48個なのだから。

 いわばこうした「識別力」は、個人個人がどうにかできることではなく、それが基盤的なものとみなされるには信頼性というような外在的な要素が必要になってくる。基礎づけ主義は完全に内在的な立場から擁護することはもはや困難であると思われる。

整合主義

(CH) A belief is justified iff it belongs to a coherent set of beliefs.

「その信念が正当化されているというのは、その信念が信念体系と整合的な場合でありかつそれに限る」この説は証拠の循環を許す(4番の構造)。

 まず3番が自然なものでないのは、証拠Rkに至った時点で無限にループするはずであるのにそれが急にどこかにぬけだしてしまうからだ(R1…Rk…Rk……Rn)。それはループを回す外部の力、たとえば「考えるのをやめた」、によってだろう。だから証拠という観点からモデル化するならば、適切なのは四番ということになるのだ。

 もちろん単なる循環では証拠にならない。そこで証拠の構造については単純な循環論法を排除するように設計されていなければならない。そこで、信念間の整合性を問題とするのである。言ってしまえば、基礎づけ主義は基礎的信念の確かさをどんどんと伝達していくのに対し、整合主義は信念の集合との整合性によって信念の正当さが発生するのである。信念集合のサイズが大きければ大きいほど、その信念は正当である。

 整合主義にはUmpromissingな立場とModerateな立場がある。前者は整合的に結びつく信念のなかに特別な地位を持つものがない、という立場である。一方、後者はそうではない。後者の立場は正当化には程度差があることを暗に示している。

 

 一般的には、整合主義は次のような課題がある。

  1.  私たちの経験とはまったく関係なく、単に整合的だというだけで正当化されていると言われてしまう違和感。しかもそれが外界についての信念についても言われるのだから、なぜそんなことが可能なのかが不明。
  2.  内容的に矛盾する二つの信念が、異なる別の整合的な信念体系によって正当化されると言われてしまう。どうするつもりなのか?
  3.  整合性という基準を持ち出す正当性がいったいどこにあるのか? 整合性というのは話の流れからも分かる通り、いきなり出て来たもので、いったいなぜそれが正当化と関わるのかいまいちはっきりしていない。もしこれが説明されないと整合性が正当化を生み出すという基盤に基づく基礎づけ主義の一パターンになってしまう。