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Susan Haackの提案するFoundherentism(基礎づけ整合主義)について [整理・途中まで]

 

 伝統的に、知識とは正当化された真なる信念であると言われてきた。これは「正当化」「真」「信念」の三つに整理される。真であるというのは素朴に事実性のことであり、<Pではない。しかし彼はPであることを知っている>という文が不自然であることに由来する。次に、信念とは、強く信じているというよりも、受け入れている、同意しているという程度の弱いニュアンスをまとう。知識が真なる信念というだけでは足りないのはそれがまぐれ当たりであることを避けるためであり、その根拠が必要であるとされる。

 まず生じる問題は、そもそもこの「知識」⇔「Justified true belif」というものが妥当なのかどうかである。言い換えれば、それが知識と呼ばれるならば正当化された真なる信念であり、かつ、それが正当化された真なる信念であればすべて知識と呼んでいいのかという問題である。これを否定したければどちらかの矢印が間違いであることを示せばよい。ところでここには、「知識とはなにか?」という問いが先行しており、それに対する答えとして「「知識」⇔「Justified true belif」」という答えが示されている。

 プラトン『メノン』において、プラトンはそれがなんであるかという問いとそれがどのようなものであるかという問いを分離した。どのようなものかを知るためにはまずなんであるかがわかっていなければならない。そのうえで、それがなんであるかを知っているならば探求など行わないし、なんであるかを知らないなら探求が行えない、というパラドクスを提出する。

 私たちとしては、知識というものを漠然と、前理論的に、非明示的に把握しており、これを議論を通して明確化しようとしている。つまり対象となっているのはその漠然とした知識というものであり、これを吟味し、その根拠を見出すことを通して明確化するという営みを行う。この個人的な了解が客観的な地位を占めることを説明しなければならないが、今はこれだけにとどめておこう。それはおそらく、知識というものの要件にかかわることになってくることだろう。

 知識というものについての暫定的な答えは上述の通りであるが、これを疑うことはもちろん可能である。

  •  (信念である必要がない)ある人は脳にチップを埋め込まれており、彼は現在の気温が気になったときにふっとある数字が浮かぶようになっている。彼はそれを受け入れているわけではなく、内心不気味がっているほどであるが、その浮かんだ数字は常にそのときの気温を指しているのである。このような状況なら、「彼は気温を知っている」と言えるのではないか。受け入れているとかいないとか、そういう特殊な心理状態がなぜ必要なのか。自分にまったくといっていいほど自信がなく思い浮かぶほとんどのことをそうではないと疑っている人は、そうではない自信家よりも知識があるのだろうか。
  •  (真である必要がない)小学生に対して円周率はなんですかと尋ねた時に「3」だと答えられた際、彼は円周率を知らないのだというだろうか。物理学ではよくモデル化を行い、物体を大きさのない点だとしたり、斜面をなめらかにしたりする。そのような理論は現実に即していない、つまり事実ではないが、私たちの知識ではないのだろうか。真であるという要件は、もう少し複雑な『その都度の状況のなかで不都合がない程度に正しい』ぐらいのものではないのか?
  •  (正当化する必要がない)それが知識であるというためにはいつでもその根拠について自覚的でなければならないのだろうか。以前たくさん調べてその結論に至ったのは覚えているがなぜかを忘れてしまったのはよくあることではないか。

 これらの批判にはすべて一理あるように思える。このようにひとつずつ否定しても知識の標準分析を否定できるが、JTBの三つを受け入れてもなお知識でないような事例があると応ずることもできる。そこで発生した反例がゲティア事例であり、ここに現代知識論の大問題が発生することになる。

ゲティア問題

 ゲティアは論文『Is Justified True Belief Knowledge?』において、まず二つのことを前提する。ひとつは、たとえ正当化を受けた信念であっても真とは限らないというものである。これは三つの要素を独立と考える限り、受け入れざるを得ない。仮に正当化が真を意味するなら、そして正当化の対象がいつも信念であることを踏まえれば、知識とは正当化されていること、それだけに他ならないことになってしまうが、これは明らかに標準分析の立場ではない。

 もうひとつは正当化にかんして論理的含意の閉包原理が成立することである。つまりPを信じることが正当化され、PがQを含意するならば、Qを信じることは正当化される、ということだ。

 ここから反例を構成する。

 AさんとBさんが「私」がいるオフィスに入ってくる。Aさんは自分が最近買ったというフォードで通勤してきたのだといい、ご丁寧に所有していることの証明書まで見せてくれる。しかもAさんはたいへん誠実な人なので嘘はつかないと私は信用している。これらの証拠に基づいて、「私のオフィスにいるAさんはフォードを所有している」という私の信念は完全に正当化される。

 だから当然「私のオフィスにいるだれかがフォードを所有している」という信念だって、正当化されているはずである。

 ところが実はAさんは嘘つき野郎でうまいこと私を欺いており、実際はフォードなど所有していなかった。が、なんとBさんはフォードを所有していたのだ。

 このとき「私のオフィスにいる誰かがフォードを所有している」ことは正当化されているし、実際に正しいので知識のはずだが、この私の知識が知識と呼べるものかどうかは疑問だ。

 このような事例はきわめて不自然なものだが、たしかに知識の定義通りになっている。問題はもちろんフォード所有の証拠として持っているものがAさんについてのものなのだから、そうした変な証拠を認めないのが自然な定義改変の流れである。しかしこれを厳密に捉えると、数百もの実験データから証明された事実が、ひとつの実験ミスで知識とは呼ばれなくなってしまう可能性も含意している。より卑近な例でいえば、隣町のスーパーでセールをやっている、という信念がチラシやSNSや近所のおばさん等々で正当化されているときに、実は近所のおばさんの話しているのは隣町ではなくておばさんの故郷のスーパーのことだった場合などが考えられる。

 しかしこれはあまりにも証拠の品質について極端な立場である。ゲティア事例でおかしいのはどう考えても妙な証拠を認めているところなのだから、方針としてはこれしかあるまい。するともう少し詳細に、正当化とは認められない証拠を位置付けてやらなければならない。そこでレーラーが提案したのは、【もしもAさんがフォードを所有しているということが偽でも、「オフィスにいる誰かがフォードを所有している」が正当化されてなくちゃ駄目】という条件だった。「オフィスにいる誰かがフォードを所有している」ということが正当化されているのは「Aさんが所有している」ためであり、それ以外の理由はないため、これが間違っていれば当然「誰かが所有している」は認めるわけにはいかない。あたりまえだ。別の例で言えば、近所のおばさんの話がトンチンカンなものでも、チラシやSNSが「スーパーでセール中!」という信念を正当化してくれているのでOKという意味でもある。

 だが厳密には、この条件ではまだ悪い。なぜならおばさんの話が偽で、他がバックアップしてくれていても、もし他が偽ならどうするのか。おばさんを偽だと想定しても他が正当化してくれているし、他が偽だと想定してもおばさんが正当化する。これを突き詰めて考えると、【偽の命題を排除しましょう】という当たり前の話になるのだが、いったいどうしてそれが偽の命題だとわかるのか。いったいどこまで見通さなければならないのか。

証拠主義から信頼性主義へ

 哲学をする以上、私たちは命題Pを主張するにあたっては必ずその根拠を提示すべきこととなっている。それはある意味で、証拠主義の次の立場を哲学の根本として提示するように思えるかもしれない。:

 命題pに対して、Dという信念的態度をとることが、時刻tにおいて主体Sにとって認識的に正当化されるのは、pに対してDをとることがtにおいてSがもっている証拠にふさわしいときであり、かつそのときに限る。

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

(信念的態度とはそれに対して真と思ったり、偽と思ったり、中立だったりする態度)

 このことはしごく当たり前のことを言っているように思えるが、問題は「Sがもっている証拠」として何を認めるかだろう。もしそこで肘掛椅子に座り、自己の内面を見つめ直すことによってなにかを正当化しようとしたならば、証拠主義は一気に内在主義的(自分の意識状態を反省するやり方)な色彩を持つようになる。

 よりくわしく、この内在主義的証拠主義を記述してみよう。単に自分自身のなかに証拠を持っていることだけではなく、その証拠を適切に使用することをも含むことがわかる。たとえばある人がQという命題について十分な証拠Pを持っているとする。しかし彼はP→Qという式がなんらかの理由で大嫌いで「なんで?」と人に訊かれても、「Pだから」ではなく「そうに決まってんだ。今日の占いで言ってたんだよ」と述べるとしよう。彼はPが原因でそうなるということを認めず、むしろ占いによってそうなると固く信じているのである。この場合、たとえQが真でも彼はそれを知っているとはいえない。つまり、単に正当化されているという以上に、その証拠を使用してくれることを証拠主義は要求する。この意味で内在主義的証拠主義は、「彼のうちに証拠を持っている」という意味でも、「彼がちゃんとそれを使う」という意味でも、深く内在主義的であるといってよいだろう。

 しかし精神分析学的な知見からも、というよりも一般的な感覚からも、内省すれば自分の心の内容をすべて発見できるなどということをどうして認められるだろうか。私たちがどうしてそれを信じるのかを、いつも内省しさえすれば発見できると想定するのはすんなりと通れる道ではないのだ。そのほかにも、自信たっぷりに間違ったことをいう人はいくらでもいるし、ニュース速報を見忘れて毒性のあるものを処方してしまう医師でさえ正当化されてしまうし、逆に自分が何歳なのかもやろうと思えばいつまでも疑える。

 「証拠」というものの取り扱いについて、それを内在的なものと解釈する必要はない。たとえば証拠を挙げることは真理を保証するためではなく、その信念を真であると信頼してもよいかどうかを判定するための手段なのだ。証拠はあくまでも真理の指針であり、真理の保証ではない――こうして証拠主義は信頼性主義に吸収される。

 

 

 

 信頼性主義(reliabilism)とひとくちにいってもやはり様々な系統があるのだが、Goldmanの「プロセス信頼性主義」に見ておこう。彼は認識的正当化というものを次のように理解する。『信念の正当さはその信念の原因であるプロセスの信頼性の関数である。この場合、信頼性は、偽ではなく真の信念を生み出す傾向性である』と。たとえば混乱した推論、願望、愛着依存、思いつきやカン、性急な一般化などはまったく信頼のおけない認知プロセスであり、標準的な知覚、記憶、よい推論、内省などは信頼できるプロセスである。

 信頼できるプロセスが正当さを生み出すことはわかりやすいが、信頼性主義はさらに踏み込んで、正当だったらいつも信頼できるプロセスを踏んでいるんだよという。つまり正当性と信頼性は同じ意味なのだ。信頼性主義はここで明らかに、正当さには程度があるのだという視点を持ち込んでいる。遠くのものを一瞬見るより近くのものを長く見たほうが信頼でき正当な信念をもたらすであろうことはよくわかる。つまり前者より後者のほうがより信頼でき、すなわち、より正当なのである。そうなると「知識」の定義に含まれる正当化に達する程度の信頼性はどれぐらいかが問題になるが、信頼性主義としては、そもそも何を知識と呼ぶか呼ばないかということ自体が漠然としており、どの程度の信頼性を十分なものと認めるかも漠然としているのだと説明する。この点は、たいへんに直感的で、わかりやすい。

 Goldmanは正当化というものを『Sが時刻tにおいて、信念を形成する信頼できる認知プロセスによって、Pを信じているならば、そのとき、SがtにおいてPを信じることは正当化されている』と考えている。まずそのプロセスとはなんなのかというと、いわば写像のことであり、なにかを入力するとなにかを出力してくれるものである。認知プロセスとは認知的な領域におけるプロセスのことである。なにかインプットがあり、私たちはたとえば推論によって、信念を出力する。信頼性主義は信頼性を問題にしているので、たった一回の入出力でなにかを決めることは難しい。100回やってどんなものかを見極めなければならない。この意味で信頼性主義が問題にするのは「トークンではなくタイプ」といわれる。

 信頼できるタイプの認知プロセスは、複数個ありうる。

  •  もしそのひとつを偏重してなにかを信じるならばそれを知識というのはためらわれる。そこでGoldmanは信念を正当化しようとするプロセスだけではなく、否定しようとするプロセスがないことも要求することになる。
  •  また、その都度の信念形成においてどの認知プロセスが働いたのか、決定する理論を持たなければならない。『問題はどのタイプを選ぶかということが知識や正当化についての直観からまったく独立に(そうでなければ論点先取になる)、場当たり的にではな規則として(そうでなければ理論とは言えない)、そして信頼性主義の基本的な方針から逸れないように(そうでなければ信頼性主義ではない)決められるかということである』(

     

    現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで p.89)

  •  信頼性主義は信頼性だけが正当さに関係すると主張する。だが私たちの内面に或る信念がなんの役割も果たさないというのはどこかおかしい。ある人が自分では知らないうちに千里眼の能力を持っており、或る日突然「大統領がニューヨーク市にいる」と信じるようになるが、彼自身はなんの証拠も持っていない。しかしこの信念は真であり、千里眼が完全に信頼できる環境で働いた結果だったのである。……しかし信頼性主義によればこの信念は正当化される。彼自身は能力についてなんの証拠も持っていないのに? たしかに彼は外在主義的には正当かもしれないが、「知っている」という状態に到達しているといえるのだろうか。
  •  信頼性は価値中立的だが、知識はそうではない。知識のもつ特別な価値を、信頼性はまったく表現してくれない。「よく知ってるねえ」というのは褒めているのだが、単に信頼できるプロセスによってアウトプットされているだけの話なので、別に褒めることではない。

 単に外在的で、単に信頼性の比率に訴える信頼性主義のやり方は困難なものである。

 

証拠の構造

 信念Pを証拠R1という理由で正当化しよう。もしR1に正当化が必要ならばR2によって示されるだろうし、R2に正当化が必要ならばR3によって示されるだろう。こうした証拠の連鎖は次の四つのいずれかの構造を持つと思われる。

  1.  循環せず、どこかで止まる
  2.  循環せず、止まらない。
  3.  循環し、どこかで止まる。(R1…Rk…Rk…Rn)
  4.  循環し、止まらない。

基礎づけ主義

 常識的な感覚からは、認識的な正当さがそれ以上証拠の必要ない確実な事柄に基づいていると思える。証拠についてのこのような理解を「基礎づけ主義」といい、Susan Haackは『EVIDENCE AND INQUIRY』において次のように特徴づけている。:

(FD1) Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified independently
of the support of any other belief;
and:
(FD2) All other justified beliefs are derived; a derived belief is justified via the
support, direct or indirect, of a basic belief or beliefs.

 すなわち、(1)いくらかの正当化された信念は基礎的である。その意味は、他の信念からの支持を受けずに独立に正当化されるということである。(2)その他の正当化された信念は派生的である。その意味は、直接的あるいは間接的に、単数あるいは複数の基礎的信念によって正当化されるということである。この基礎的信念というものが確実で、絶対的で、修正されるということがありえないというところまで主張すると、より強い立場になるだろう(infallibilist foundationalism)。またその基礎について、経験的なものを据えるか、非経験的なものを据えるかによっても立場は区別される。:

(FD1-NE)Some beliefs are basic; a basic belief is justified independently of the support of any other belief; basic beliefs are non- empirical in character.

 これが非経験的な基礎を強調したバージョンで、たいていの場合想定されているのは論理的な、数学的な事実である。あるいは、

(FD1-E)Some beliefs are basic; a basic belief is justified independently of the support of any other beliefs; basic beliefs are empirical in character. 

 

 これが経験的基礎づけ主義である。経験的基礎づけ主義は、正当化される信念に「程度」があることを明らかに許容している。そこで私たちとしては基礎的信念の正当化に決定的なものを求める強い意味での基礎づけ主義と、他の信念が部分的な正当化を与えるという弱い意味での基礎づけ主義に分けることができる。

 すると派生的信念にも当然区別が生まれる。つまり派生的信念が完全に基礎的信念で正当化し尽くされるというPureな立場と、部分的な正当化を与えるだけということもありうるImpureな立場である。

 また、経験的基礎づけ主義はさらに細かく三つのタイプに分けられる。

 

  • Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified, not by the support of any other belief, but by the subject's experience
  • Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified, not by the support of any other belief, but because of a causal or law-like connection between the subject's belief and the state of affairs which makes it true
  • Some justified beliefs are basic; a basic belief is justified, not by the support of any other belief, but in virtue of its con- tent, its instrinsically self-justifying character

①経験主義的 基礎的信念は正当化されているが、それは他の信念によるのではなく、知覚的とか想起的とかといった経験によるものだ。

②外在主義的 基礎的信念は正当化されているが、それは信念を持つこととそれを真にすることとの間の因果関係・法則によってである。

③自己正当化的 基礎的信念は正当化されているが、それは基礎的信念自体が持っている内容によるものだ。

 ここで見て取れることは、外在主義的・自己正当化的なものは正当化というものを当人の経験とは関係のないところで説明することである。自己正当化的な説明ではその信念自体が問題となり、外在主義的な説明では正当化を世界の事態と結びつけている。

 

 最も自然な経験主義的基礎づけ主義で考えれば、基礎的な信念は「ゆうべ、君を学校で見たよ」といったようなものだろう。だがより慎重にいうならば、「それは君に見えたよ」というべきだ。つまり基礎的な信念は単純な事実というよりもその事実についての直接的把握というべきものである。見えたのが誰かはわからないが少なくともそれが君に見えたのだということは疑うことができない確実なことである。

 しかしこのように捉えることには問題がある。一言で言えば、直接的把握などという信念内容を一切持っていないものが、どうして信念を正当化できるのか理解できないからである(もし直接的把握が「君に見えた」というように具体的な信念内容があるならばその内容が真であることを示す必要がある)。目の前に白い箱のようなものが見えるからといって、目の前に白い箱があるという信念をいったいどう正当化するというのか?

 認識論的には、別の学問に問題を譲り渡すことができると主張しうる。つまりなんにせよ「白い箱が見える」から「白い箱がある」に移るのだからその詳細なメカニズムの分析は他に譲って、ともかく直接的把握を基礎にしようではないかと提案するのだ。ところがこれもうまくいかない。白い箱にぽつぽつとまだらがついているとしよう。一見したところではその個数などは常人にははっきりしない。しかしサヴァンなどの特殊な人々はこれを48個と明確に応えることができる。つまり直接的把握の段階で信念の信頼性に差が出ているのである。そうすると「まだらが35個入った白い箱がある」という直接的把握を基礎とすることはできない。現にそれは48個なのだから。

 いわばこうした「識別力」は、個人個人がどうにかできることではなく、それが基盤的なものとみなされるには信頼性というような外在的な要素が必要になってくる。基礎づけ主義は完全に内在的な立場から擁護することはもはや困難であると思われる。

整合主義

(CH) A belief is justified iff it belongs to a coherent set of beliefs.

「その信念が正当化されているというのは、その信念が信念体系と整合的な場合でありかつそれに限る」この説は証拠の循環を許す(4番の構造)。

 まず3番が自然なものでないのは、証拠Rkに至った時点で無限にループするはずであるのにそれが急にどこかにぬけだしてしまうからだ(R1…Rk…Rk……Rn)。それはループを回す外部の力、たとえば「考えるのをやめた」、によってだろう。だから証拠という観点からモデル化するならば、適切なのは四番ということになるのだ。

 もちろん単なる循環では証拠にならない。そこで証拠の構造については単純な循環論法を排除するように設計されていなければならない。そこで、信念間の整合性を問題とするのである。言ってしまえば、基礎づけ主義は基礎的信念の確かさをどんどんと伝達していくのに対し、整合主義は信念の集合との整合性によって信念の正当さが発生するのである。信念集合のサイズが大きければ大きいほど、その信念は正当である。

 整合主義にはUmpromissingな立場とModerateな立場がある。前者は整合的に結びつく信念のなかに特別な地位を持つものがない、という立場である。一方、後者はそうではない。後者の立場は正当化には程度差があることを暗に示している。

 

 一般的には、整合主義は次のような課題がある。

  1.  私たちの経験とはまったく関係なく、単に整合的だというだけで正当化されていると言われてしまう違和感。しかもそれが外界についての信念についても言われるのだから、なぜそんなことが可能なのかが不明。
  2.  内容的に矛盾する二つの信念が、異なる別の整合的な信念体系によって正当化されると言われてしまう。どうするつもりなのか?
  3.  整合性という基準を持ち出す正当性がいったいどこにあるのか? 整合性というのは話の流れからも分かる通り、いきなり出て来たもので、いったいなぜそれが正当化と関わるのかいまいちはっきりしていない。もしこれが説明されないと整合性が正当化を生み出すという基盤に基づく基礎づけ主義の一パターンになってしまう。

新しい正当化理論

 説明すべきは、主体Aが時点tにおいてpと信じることがより良くorより悪く正当化されるのは~~~に依存するということである。そしてこのことは三つの前提をすべて受け入れたうえで問われている。

  1.  正当化が「主体Sにとって」のものであること
  2.  どの時点かに応じて正当化されているかいないかが変わる
  3.  正当化には「程度がある」こと

 私たちがこれまでの議論から学ぶことはなんだろうか。証拠主義は次のように言う。

 命題pに対して、Dという信念的態度をとることが、時刻tにおいて主体Sにとって認識的に正当化されるのは、pに対してDをとることがtにおいてSがもっている証拠にふさわしいときであり、かつそのときに限る。

現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで

 証拠主義者が反発しているのは、「正当化」というものがその人の認知能力や認知過程、情報収集プロセスに依存しているというすべての理論である。曰く、正当化とは完全にその信念を持っている者の証拠に依存する。この証拠主義を完全に内在的に解するとおかしなことになることは先述した通りであり、窮地に立たされた証拠主義は信頼性主義に回収されることによって難を逃れる(とはいえ、証拠は完全に信頼できるプロセスということになり、証拠という言葉を使う意味はもはやない)。

 しかしGoldmanの信頼性主義にも問題があった。

  1.  (一般性問題)信念形成に携わる認知プロセスには複数あり、その都度の信念形成においてどのプロセスタイプが働いているのかを決定する理論を持たなければならない。いま「桜が咲いている」という個別の認知プロセスは驚くほど多くのプロセスタイプに属している。『部屋の中で家の外の事実について判断するプロセス』『パソコンを操作しながら判断するプロセス』……信頼性を見ればよいといっても、いったいどれのもとに形成されたのか?
  2.  信頼性こそが認識的な正当さを説明する鍵だとしても、私たちの内面にある信念がなんの役割も果たさないのはおかしい。
  3.  知識が持つ規範的な価値を説明していない