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にんじんと読む「人はなぜ憎しみあうのか 上」

 人間社会は社会性昆虫の社会に似ている。

 私たちはちょっとした違いにとんでもない異質さを感じ、人間として決定的に同じである点はすべて通り越して、別物として扱う。逆にいうと社会のメンバーであるということは誰の目にも明らかなものであり、外見や話し方、しぐさ、豚やチップまでのあらゆることに対する考え方についてたいがい共通している。異質なよそ者はこちらを侮辱していると受け止められ、相当な困難の末にようやく受け入れられ、数世紀経って完全に受け入れられるものだ―――だが、この厄介そうな「社会」というものは、私たちの幸福にとって最も重要なもののひとつなのだ。

  •  社会における協力の役割。しかし協力はアイデンティティほどには重要ではなく、社会のメンバー全員が仲良しとは限らない。ヒト以外の脊椎動物、特に哺乳類において協力のしくみが不完全であろうが、社会は恩恵を与えているようすがわかる。
  •  社会の成功において重要なのは社会内や社会間における動物の移動である。
  •  社会のメンバーは好き嫌い問わず社会のメンバーについて知っていなければならない。ゆえに個体数はせいぜい数十に限られる。だがヒトの社会はこれを乗り越えている。いったいなぜか? だがこれを乗り越えているのは人間ばかりではない。社会性昆虫もそうである。
  •  昆虫社会の規模が拡大しインフラや分業が込み入ったものになるにつれて社会が複雑になっていく……この様子は人間社会にも見られる。
  •  他の動物たちのアイデンティティの証明。たとえばアリは化学物質、クジラは音など。この単純な手法が記憶力と言う制限を取り払い、大規模化が可能となる。そして人間の手法は、このサインを微妙なしぐさやふるまいなどに見ている。
  •  人間がしるしを利用するという進化の階段をのぼったのはいつなのか?(第四部)
  •  メンバーであることの根底にある心理。
  •  社会間の関係。動物の社会では平和な状況はまったく例外的なものである。
  •  社会の崩壊。徐々に派閥が生まれてきて軋轢が深まり、分裂する。
  •  社会から国家へ。
  •  社会は必要か?

 

 

 社会とは親とその子どもといった単純な家族よりも多い数の個体からなる集団で、アイデンティティによって他の同じような集団から区別され、何世代にもわたって継続的に維持される。社会のメンバーはめったに変化せず、変化には困難を伴う。構成員たちはその集団の所属を重んじている。

 ベネディクト・アンダーソンは社会が「想像の共同体」であるとして、社会を便宜上の構成物だと考えた。なぜなら社会のメンバーは他のメンバーを全員知っている訳ではないからで、あくまで想像にすぎないからだ。この点は彼の言う通りで、この想像がよそ者を区別している。だが彼と違うのは、こうしたアイデンティティは現代性やマスメディアの産物ではなく、動物のすべての社会に当てはまっているということだ。

 またエミール・デュルケムは、協力というものを社会の重要な要素と考えた。人類学者は社会というものを協力的な方法で組織された集団と見る。そして社会はそのように捉えられがちだ。だが協力はアイデンティティに比して重要なものではない。そのことを見るために、『社会脳仮説』という理屈を出発点にとろう――――ここでは脳と大きくなるにつれて社会的関係も同様に拡張したと仮定している。ところが私たちの持っている社会関係など大した数ではない(ダンバー数)。このことで支持者は悩んでいたが、別に悩むことはない。社会的なネットワークと、社会そのものの二つを混同しているだけだ。社会にいるのは協力的な味方ばかりではない。よく知らないやつもいる。ごみ収集人はそんなよく知らないやつのためにごみを拾い、賃金をもらう。そしてよく知らないやつからコーヒーを買い、教会でよく知らないやつに話しかける。食い違いがおき、罪を犯し、暴力を振るうこともあるだろう。そんな機能不全を起こしても社会は存続する。協力に注目すると、対立を見逃してしまう。争いは社会性昆虫でさえ起こるのである。

 社会を維持するために必要な協力はどれほどか? じつは、それほど多くはない。ここは俺の縄張りだぞと石を投げてくるやつがいたとしよう。そいつが二人になったとしよう。数が増えて、そいつらはみんなよそ者に石を投げる。だが『内側に手は出さない』という暗黙の合意が、原初的な協力を形作っている。もちろん一緒の縄張りに住むということは窮屈になるということなのだから、「みんなでやることでそのぶん縄張りが広くなる」というような利点がなければありえない。しかしともかく、社会性のある行動は最小限でも社会は成り立つ。たとえばマダガスカルワオキツネザルは、よそ者撃退以外は一切協力しない。

 莫大な数の生物は単体だけで十分やっていけている。社会性のある動物はいたるところに存在するが、社会を発展させるところにまで進むことはめったにない。二者から構成される基本的な社会単位、つがいでさえ持続期間はそれほど長くないし、家族はすぐに離れ離れになる。要するに社会と協力を同一視している人は因果関係を逆に理解しているのだ。生物たちには多種多様な協力がみられるが、すべてが社会を形作っているわけではない。社会がなくても協力がなされている。協力は社会という方程式に必須のものではなく、人間嫌いでも自国の国民であると主張できる。社会のメンバーは自らがもつアイデンティティによって結び付いているのだ。