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にんじんと読む「健康の本質」

健康の本質

 健康という概念の重要性についてはすでに明瞭であろう。健康についての理論が、理論として備えていなければならない適切な条件は少なくとも、

  1.  健康にかかわる概念相互の論理的な関係
  2.  健康概念と、そのほか主要な人間性に関わる概念との論理的関係
  3.  人類の健康と他の生物の健康との関係
  4.  心の健康と身体の健康との関係
  5.  健康と環境との関係
  6.  健康と科学との関係

 が説明されていることであろう。ところでこれらに取り組む前に、そもそも「健康」をどのように考えればいいのかについて確認しておかなければならないだろう。つまり健康には本質があってこれを定義しようとしているのか、それとも、本質などというものはなくその時代・状況に応じてそれを用いる特定の仕方を取り決めているだけなのか、である。ここで採用したいのは後者の考えだ。だが言葉の使い方というのはそれほど恣意的なものではない。犬について話し合う時、お互いの犬の定義はそれほど大きくは異なっていないはずだ。そこで言葉の意味というものには本質ではないが、一定の用法がありそうだと想定することは理に適っている。

 健康を考えるうえで、ここでは経験的な方法ではなく、哲学的な概念分析を行う。健康に関するいろいろな考え方を批判し、それを踏まえて考え抜かれた提案をしたい。そこで主な舞台となるのが、健康というものを、人体組織の特定の部位の構造と機能に注目して考えようとする『要素論』と、まるごとの人の状態に焦点が合わされる『全体論』の対立である。そして健康とは、要素論的な意味ではないと主張したい。

  1.  生物の機能は生体組織の統合レベルの違いによって異なる。ある特定の機能が身体のどの部分の機能なのかはっきりしないため
  2.  生物と環境の変化との間の相互作用を考えるほど、要素論には困難が出てくるため

 では全体論を踏まえた健康とはいったいどのようなものであるのか。そこでは人は単なる生物個体ではなく、社会的関係に組み込まれた行為者として、つまり数多くの日常活動を営み、他者や制度との間で多様な関係に取り組んでいる者として見る。簡単にいえば、調子が良いと感じられ社会のなかで自分の役割が果たせているならばその人は健康なのである。ここには主観的な感じと、能力の二つの観点がある。だが痛みや不快な感じがなくとも能力が欠如した状態(たとえば昏睡や状況について反省できない精神的な病)というものがある。すなわち、強い痛みや不愉快さがすべきことの障害になるとしても、その逆は必ずしも成り立たない。ゆえに健康を、あるいは病を定義するうえでは『能力欠如』という概念のほうがはるかに中心的なのである。もちろん痛みや苦しみが重要な位置を占めていることは疑いないのだが。

 さて、身体運動のすべてが行為ではない。行為とは私たちが思い通りに統御できて、意志の働きかけによって影響を及ぼす運動ないし行動のことで、専門的には””志向的な””行動である。行為はたいていの場合それ自身のためには行われず、ある種の目標に到達しようとする計画の一部であり、階層がある。

革命家が、

指をうごかすことによって、

引き金を引くことによって、

独裁者を銃撃することによって、

彼を殺すことによって、

自国の独裁体制を打倒した

 このような連鎖は際限なく伸びていくことはなく、行為の連鎖を開始する行為はいつでも存在する。これを始発行為という。そしてそれから派生した行為を派生行為という。派生行為の終端は概念分析だけからは導かれず、行為者の意図がなんであるかに依存する。行為者にとって統御しやすいのは身近なレベルの行為である。多くの物事は因果的に私たちの目標に向けてうまく結びついてはくれないのに対し、始発行為を妨げる事柄はごく限られている。あるいは慣習的にも、たとえば帽子をあげることが「挨拶をする」行為になるかどうかは、相手がどういう人間であるかなど外部状況に左右されるだろう。しかし帽子をあげることはたいてい可能である。

 それでも日常的な多くの行為は完遂される。さきほど見た通り、始発行為以外はいろいろな状況によって妨害されやすいため、完遂できるということはそれ自体、『機会』に恵まれている。これには、革命家は引き金を引く以前にまず銃を手に入れなければならないし、絶好の狙撃ポイントを見つけなければならないなどの諸行為が前提となっているという意味でもあるし、外部の因果的諸条件がうまく働いていることでもあるし、また慣習的派生の場合もそこにはそれが慣習であるための一定のルールがあるものだ。

 さて、私たちがいま問題としている『能力』、つまり「~ができる」とは一体何を意味しているのか。これには様々なものがあるが、私たちはさきに『機会』を見たが、機会があることもまた「道路を渡ることができる」といったような言い方で表現される意味のうちのひとつである。このように能力と機会を区別したうえで、これらを組み合わせたものを『実行可能性』と呼ぼう。

 私たちにとって重要なのは、広い意味での能力というものが環境によって左右されるということである。自分の国では農業をするだけで家族を養うことができた人も、別の国では立ち行かずに貧困に陥ることもある。そうとはいえ、その人は訓練を積めば自活できるようになるならば決して「病んでいる」とは言われないだろうから、むしろ健康概念に関して重要なのはこの””二次能力””であろう。

 

 以上、私たちは健康である、あるいは病んでいるという概念についてある程度の見通しを得た。健康であるとは少なくとも、ある種の行為群を行う二次能力を持っていることである。では「ある種の行為群」とはなんなのか。行為とはなにかを志向した行動のことであったから、これは「ある種の目標群」のことであろうし、ここでは完遂が目指されている『最重要目標群』について語るのがよいだろう。

 私たちは次の二つの考え方を退ける。:(1)人の最重要目標はその人の基本的ニーズから導き出される、(2)人の最重要目標は、人生の中でその人自身が設定する目標である。

  1.  (長所)基本的ニーズという概念は人間以外の生物一般に当てはめうるし、人類を個別的にいちいち調べる必要もなさそう。(短所)基本的ニーズは健康概念をすでに前提しているのではないか。また、ニーズを生存に限るならあまりにも適用範囲が狭すぎないか。
  2.  (長所)人間の持つ多様な目標を反映しており、これによれば健康であるかどうかは完全に確定される。(短所)個々人の目標設定は本当に多様すぎるので、内容の貧しすぎる目標や、当人にとって逆効果の目標、危害を招く目標をたてる場合は常識に反した健康概念が生まれる。

 そこで提案するのが、『ある人の最重要目標とは、その充足が、その人の最小限の幸福の実現にとって必要かつ十分な条件となるような目標である』。つまり健康の概念は幸福の概念と結びつく。注意が必要なのは、健康だからといって幸福ではないし、健康でないからといって幸福でないわけではない。そして幸福と結びつくことによって健康は評価的な概念となり、しかも道徳などとは異なり自己配慮的で、充足によって満足をもたらす。もちろん道徳的な目標と両立することは可能である。ただ、このようにして仕上げられた健康概念が、実際問題として医療に適用される際に事業全般に混乱をもたらすものでないかどうかはまた別途検討する必要があるが、その心配はおそらくないだろう。なぜなら、評価は社会関係の場で形成され同一文化で暮らす人々の善き生のなかみにかんしてだいたい同一の評価を下す傾向にあろうからである。