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ドレイファス『世界内存在』について 第二章

第二章 『存在と時間』の序論——方法論的部分

 存在了解にどのように接近すればよいのか。先述したようにこれを明示化することなどまったく困難なことである。この困難さについて、次の例はとてもわかりやすい。

説明のために次のような例を考えてみよう。ある特定の文化Cのなかに育てられ、Cに適合した形で人生を送っている女性Wの例である。文化Cは、西洋的な近代化をくぐってきてはいうが、女性の役割に関しては保守的な部分を残しており、社会で主導権を握っている男性の役割を肯定し、もっぱら女性に子供の養育者としての義務を課しているような社会である。女性Wの日常的な存在了解のなかには「子供の養育者であり男性より劣ったもの」という可能性が含まれているだろう。彼女はこの可能性を選択しているわけではないが、受け入れ、正当だとみなし日々を送っていて、この自己の可能性の了解は特に論じられたり表だって意識されないまま、彼女の人生の核心をなしている。Wは無能な男性が彼女より高い社会的地位にいても気にしないし、そもそもそのような比較をすることすらしないかもしれない。こうした自己についての存在了解は、語られたり意識されない仕方で、日常のふるまいのなかに浸透しそれを導く。

『存在と時間』の哲学〈1〉

 存在了解は具体的な行為に現れる。たとえば上の例における女性Wは、自分の娘に「女は出過ぎてはだめだ」と忠告したりするだろう(存在了解の前理論的自己解釈)。この忠告という行為は他の文化から来た人によって批判されたり、社会の変化とともにうまく機能しなくなったりするだろう。このようなとき理屈をくっつけた””理論的な自己解釈””が現れてくるのである。そしてこのような行為や体系化されたテクストなどはさらに存在了解を強化したりする。この三つは影響を与え合っているのだ。

 私たちはどんな理論からも自由に言葉を発することができるわけではなく、心身二元論的な伝統に縛られている。たとえそれを批判するとしても私たちはなお心と物体の二種類の実体を認めるか否かという問いに繋ぎ止められてしまう。探求をはじめる者もいつもなにかの伝統から始めなければならないが、その伝統が私たちのさらなる問いかけを妨げることがあるのだ。伝統がいかに自己解釈に影響を与え、いかにそれに追随してしまうことか。この伝統というものは「やめた!」と言ってやめてしまえるようなものではなく、そこからまったく解放されているのだと主張してまったく新たな基礎を打ち立てられるのだと考えることは有害だし、伝統に含まれている今では見失われてしまった知的資源を忘れてしまうことにも問題がある。ゆえに過去の伝統を破壊するのではなく、その働きを探し出し、そこに隠されているまだ未開発の道行きを見出していく必要がある。