にんじんブログ

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にんじんと読む「「くらし」の時代 ファッションからライフスタイルへ」

序章

もう、おしゃれに時間や労力を割く時代ではない。あまった時間やお金をほかのことに有効に使う方がいい。では、何に使うのか。(略)それは服以外のあらゆるものではないだろうか。すなわち、衣食住の「衣」以外のものがファッションになったのである。

「くらし」の時代: ファッションからライフスタイルへ

 「ファッションへのこだわりが食や雑貨に向けられる時代」(物欲なき世界)がはじまり、ファッションの時代は終わった。このことは1990年代のバブル崩壊など経済的な要因を抜きにしては語れないが、ブランド物で着飾っていた人たちまでユニクロを着るようになった理由を説明できない。

 1980年代のDCブランドブーム終息は、個性的なファッションで自己表現することについての行き詰まりであろう。一時代を築いたDCブランドは、コピー商品の出回りでその稀少性が失われたのだ。新たなデザインがものすごいスピードで追い求められていくうち(「たった半年で消える最先端のデザイン」)、遂には日常生活に適さない服となり(「紙のジャケット」)、機能性はなくなった。この揺り戻しとしてシンプルで普通の服が求められるようになっていく。この時点で「着る物」よりも「着る者」、つまり身体に関心が移り、「コスメ」によって自己表現する時代となる。

 この頃、服といえば<最先端の服>と<スーパーの服>の二極にほぼ分かれていた。おしゃれな服というのはつまり高価だということを意味していた。ところが1990年代に入り「ファストファッション」が現れると、お金をかけなくてもおしゃれができるようになった。ファストファッションはパリコレなどで発表された流行の服のコピーを工場で大量生産しすばやく流通させる。最初はファストファッションではなく「マックファッション」と言われた。

 

 1984年、広島市中区に「UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE」が開店し、1988年「ユニクロ」に名前が変わる。この店は安くて快適なフリースを、一人一着の国民服へと定着させた。2000年のカタログにおいてユニクロは次のように語る。:

ユニクロの服は「カジュアル」です。「カジュアル」は年齢も性別も選びません。国籍や職業や学歴など、人間を区別してきたあらゆるものを越える、みんなの服です。活動的に、快適に生きようとするすべての人に必要な服です。服はシンプルな方がいい。私たちが作る服は、着る人自身のスタイルが見えてくる服であってほしいと思います』

 服はシンプルなほうがいい。DCブランドに疲れ果てた人々の前にユニクロが現れたのだ。ユニクロは服を「部品」と捉え、個々に主張をしすぎない単品のアイテムを組み合わせ全体を完成させる。同じ型のさまざまなカラーバリエーション。ベーシックなデザイン。そしてなによりも機能性……。フリースは部品としては厚みがありすぎ存在感が強かったので、ユニクロは2006年に「ヒートテック」を発表する。驚くべき薄さと温かさに、もはや分厚いフリースを持ち歩かなくてもよくなったのだ。

 実ははじめ、ユニクロを着るのは恥ずかしいことでもあった。「ユニバレ」というのは、着ている服がユニクロであることがバレてしまうことである。この言葉が話題になるのは2009年はじめであるが、2015年になると遂にファッション誌『andGIRL』11月号において「もう、『ユニクロ』『GU』でよくない?」と掲載されることとなる。

 

 

 

 

第一章

 雑誌『VERY』は2011年春に、衣食住全てにおいてオーガニックなものを求める意識の高い主婦こそが一番のトレンドだと断言した。オーガニックコスメ・オーガニックコットン・オーガニックフード、つまり有機食材をはじめとしてナチュラル(自然)なものを求めるライフスタイル。現在、その雑誌ではオーガニックシャンプーで髪を洗い、オーガニックコットンの服を着て、オーガニックな野菜を子どもに食べさせることが求められる。とはいえ、『VERY』という雑誌の編集方針は、新たな流行を提案するというものではなく、読者アンケートなどを通してなるべく読者に寄り添ったライフスタイルを提案するものである。いったいなぜ「オーガニック」志向がうまれたのだろう。

 それはやはり環境問題への関心の高まり、エコロジー意識の高まりであろう。エコカーやリサイクル&リユース、エコバック、……1990年代のあいだ、人びとの関心は高まり続けた。これらの取り組みは、当たり前だが、一過性ではなんの意味もない。継続的でなければならない。そのようなライフスタイル「ロハス」が新聞に登場したのは2002年で、「健康と環境を志向するライフスタイル」であった。これが『ソトコト』など月刊誌で取り上げられ、2011年に東日本大震災が起こり、その直後に『VERY』がオーガニックについて書いた。「持続可能」なライフスタイルはたとえ、震災直後でも変わらない。というよりも、ファッション誌として継続させるためにも「オーガニック」は望ましかったといえる。

 

 高度消費社会における消費に対する反動。環境問題や資源問題へ配慮しなければ立ち行かなくなる。「エコ」「スローライフ」「ロハス」「オーガニック」……ここには私たちはただ欲望のままに消費しているのではなく、環境にやさしい商品を選択し、消費しているのだという思いがあるのではないか。その正しさが、消費にまつわる罪悪感を取り除く。

 

 

第二章

 健康的・ヘルシーということがいつからこれほどまでに価値を持つようになったのか。実際に健康かはともかく、健康的・ヘルシーであることに消費者の意識は確実に向かっているように見える。

 ハイヒールのような窮屈な靴ではなく、理にかなったスニーカーを履こうというブームはファッション的にも、ジェンダー的にも、健康的にも、コスパ的にも「正しい」選択となった。誰からも文句を言われない。多少スタイルダウンするものの、この選択には勝てない。スニーカーに馴染んだ女性たちはフィットネスの流行にも貢献する。マラソン・キャンプ等々。スポーツに興じることは善きことであり、自然との共生はよいことなので、豪華な食事やパーティもそれほど非難されないのだ。

 

 

第三章

 本がおしゃれな時代だ。個性的な本屋が注目を浴びている。火付け役となったのは2012年、B&Bである。つまりBOOK AND BEER、ビールを飲みながら本が読める。イベントスペースとして著者のトークイベントが連日開催されている。ほかに人気なのはBOOK AND BED、泊まれる本屋である。とはいえ本は一冊も売っていないので厳密には本屋ではないが、本がたくさん置いてある。どれだけ頑張っても一晩に数冊しか読めないのに、いちいち泊まりにいくのは不経済な気がしなくもない。しかし、ここのセールスポイントは、本を読みながら「寝落ち」できることであって、ただ本に囲まれて眠るのがいい。

 ここには、現在の本と人の関係が象徴されている。つまり本が読みたいのではなく、本のある空間を体験したいのである。本は空間を飾る小道具となり、いわばインテリアとなっている。蔦屋書店は「この店にあるのは本ばかりではありません」とブックカフェを併設する。価値があるのは本ではなくて中身に書いてある提案であって、本は映像ソフトや雑貨、文具などと等価に並べられている。本を眺め、おしゃべりし、音楽や映像を楽しみ、コーヒーを飲むことは全く同じように行われる。TSUTAYA図書館というのもでき、公共図書館とはっきり区分けされて蔦屋書店という商業ゾーンがある造りになっている。この図書館の大きな特徴は「ライフスタイル分類」と呼ばれる独自の分類である。

 アンケートでは新図書館の魅力は「カフェがある」「おしゃれ」「年中無休」と、まったく本とは関係がなく、利用者のほとんどは市民ではなく近郊である。独自の分類は評価されておらず、そもそもそんな分類が必要なのか疑問視され、反対運動も起きている。本のテーマパークとしてはいいが、公共図書館として知的資本と言い切ることができるのかは難しい。そもそも蔦屋書店の主な客層は『本好き』ではなく、カフェもあるし、きれいな写真集なども並べられていて、良いな、と思う『ふだん本は読まない』層である。公共図書館にカフェなどできても大喜びはしない。

 

 物を持たないシンプルな暮らしが推奨される中で、唯一たくさん持つことが許されるのが本である。それはやたらと小難しい本ではなくて、生活に馴染むレシピ本・写真集・ガイドブックなど、ていねいな暮らしである。本なら衝動買いも許される。家具だから、読まなくてもよい。

 

終章

 2011年の震災は私たちの暮らしに目を向けさせた。ライフスタイルをファッションにした、ともいえる。2005年に創刊されたライフスタイルをファッションとする雑誌は2009年で終わってしまっている。早すぎたのだ。

 高度経済成長期によって豊かになり、流行を追い求めることが美しい暮らしであったのだけれども、バブルが弾け、生活を振り返ってみたとき、ロハスな暮らしに目が向いた。地球環境や社会に配慮し、健康を大切にすること。ていねいに暮らすこと。2011年の震災はなんとなく消費すること、浪費することが許されないムードを作った。エコロジーなのか、ロハスなのか、フェアトレードなのか、エシカルなのか、「正しい」ことが大事になった―――正しいかどうか、私の行いは理に適っているのか?