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(読書メモ)「ハイデッガーの超越論的な思索の研究」序章

序論

 『存在と時間』は前半部しか執筆されず、後半部は断念された。この研究が途絶されたのは彼の問うた「存在の意味の問い」の欠陥によるものか。その欠陥はあまりにも致命的であるためにこの研究を引き継ぐものさえ現れなかったのか―――このような疑問はハイデッガー研究にとって不可避のものである。彼自身は後半部の草稿等をまったく残していないが、後年には多く自己批判を繰り返している。

 1927年夏学期「現象学の根本諸問題」講義の段階では、彼の「存在」探求は次の三ステップから設定されていた。第一に、存在者が了解されることの可能性の条件=意味として存在を捉えること。第二に、今度はそのような存在の了解の可能性の条件を問うこと。第三に、可能性の条件としての根源的な時間=存在時性………。後年、ハイデッガーは、こうした流れが見かけ上は超越論的(=それ自体ではなくてそれを成立させる可能性の条件を問うこと)ではあるものの、実際はそうではないと自己批判している。

 これに対する研究者たちの態度は次の三つに代表されるだろう。

  1.  ハイデッガーの言う通り『存在と時間』は超越論的なものではなく、それが原因で『存在と時間』のプロジェクトはとん挫せざるを得なかった。
  2.  彼の主張に反して『存在と時間』はたしかに超越論的なものだったが、しかし『存在と時間』は超越論的でないような様々な動機が不調和に混ざり合っておりこれがゆえにプロジェクトはとん挫した。
  3.  彼の主張に反して『存在と時間』は超越論的なものだし、しかも『存在と時間』は成功している。にもかかわらずハイデッガーは存在の意味の問いを放棄してしまった(ただこの立場においては問いの放棄についての関心は薄い傾向にある)。

 ここではまず『存在と時間』に含まれるとされる超越論的でないものによってもたらされる不調和と、その評価を行う。そして最終的にはその不調和が決定的な欠陥ではなかったのだと結論することになる。

 ハイデッガーは自らの研究を「超越論的」であるという際に、カントが意味していたものとは同じではないが、継承されているものを認める。すなわち、カントが『純粋理性批判』で追い求めた「アプリオリな綜合判断」は、ハイデッガー曰く、存在者が一般にどう存在するかということを存在者的経験に先行して認識することであり、つまり「アプリオリな綜合判断はいかにして可能か」というカントの問いは存在者の存在を認識することの可能性の条件への問いであるから、まさにハイデッガーの問いはカントの問いの反復なのである。カントにおいて「超越論的」とは、「対象に関わるよりも、むしろ、対象一般についてのわれわれの認識様式―—この認識様式がアプリオリに可能であるべきかぎり――に関わるところの一切の認識」(B 25)を特徴づける語であった。

 哲学史的に振り返れば、まずアリストテレスにおける存在者の諸カテゴリーがあり、諸学の体系を自然学に置くデカルトの構想を引き継ぐ形で、カントはそれらのカテゴリーが第一には自然学の対象に対して適用されるものだと主張した結果、神学や心理学等々に関しては派生的なものとなり、その後典型的にはディルタイらによって「生のカテゴリー」を創設する課題が生じた。これは自然学とは異なる原理に基づく諸学の基礎をなす新たなカテゴリーであり、こうした領域においても真正な学問的認識が可能なはずだ―――この大きな流れをハイデッガーも受け止めている。『存在と時間』においては単に「生のカテゴリー」という以上に野心的な構想が述べられており、われわれがそれであるような存在者(現存在)を分析すれば他のすべての種類の存在者の存在について議論するための基盤が得られるはずだ、という。こうして現存在と非現存在的存在者における存在諸性格は区別され、前者を彼は「実存カテゴリー」と呼んでいる。

 ハイデッガーの超越論性はカントやフッサールの理想的な認識主観に対して、われわれの有限性を強調する。われわれは徹底的に歴史的・地理的状況のなかに投げ入れられたものであり、すべての認識はそうした偶然的なそれぞれの状況によって逆らいがたく規定されているのである。だが、彼は理想的で中立的な主観といった地盤としてのおのれを見出すことの困難を主張しつつも、それを不可能であるとは考えてはいなかった。