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にんじんと読む「数学的に考える」

 大学の数学は、高校からの移行がうまくいった学生たちにとっては、高校よりもある意味ずっと簡単である。高校までは何百個もある料理のレシピを覚え実際に作ってもらうという活動が「数学」だったが、大学からは力点が変わるのだということに気がつきさえすれば。大学から手にするのはレシピブックではなく、メガネである。手順を身に着けてそれに従うことではなく、ある仕方でものを見る技能を培うことが学習者に求められるのである。高校において十分に課題曲を弾きこなせるようになった学生に要求されているのは、単に譜面をなぞる以上のことなのである。高校から大学への移行を望む学生は、それを解くテンプレ・手順をさがすのをやめ、その問題自体について考えなければならない。

 数学がレシピ的なものだと理解されるのは、実は歴史をなぞることでもある。古代エジプトバビロニアの文明において、数学は「この数にこうして、あの図形にああすれば、こうなる」というきわめて実用的なものだった。さまざまなレシピを数学という統一的なものにしたのは古代ギリシャの人びとで、形式的なアプローチで主張を証明するやり方はエウクレイデス《原論》に結実した―――高校までの数学はだいたいこのあたりと微積・確率論を付け加えたもので、特に新鮮さはない。だからまだ数学が研究されていると聞いて驚く人さえいる。

 数学は18世紀にはいり、パターンの科学として定義されるようになった。数学では反復を扱う。繰り返しだ。数論は数の、幾何学は形の、解析学は動きの、論理学は推論の、確率論は偶然の、トポロジーは近さや位置の、フラクタル幾何学では自己相似のパターンを調べる。単に繰り返すだけではない。繰り返しの科学なのだから、何度も何度もそうしていても、決して変わらないものを見出すのが数学だ。だから、扱っているものは決して目には見えない。ものが落ちるのを見ても運動方程式が見えないように。数学というメガネはこれを見えるようにする。

 しかし数学の本をちらりとめくっただけでも、わけのわからない文言がちらつく。たとえば「引数が有理数のときに1を、無理数のときに0を出力する関数」などなんの役に立つだろう。こんなものをやる意味は? 驚いているのは私たちだけではなく、昔の当の数学者たちもそうだった。彼らにとっても関数というのはy=x^2+3x+5といったようなわかりやすい式で表されるのが当然だった。「関数」という言葉自体に、革命が起きたのだ。規則でありさえすれば代数式でなくてもいいという革命が。だがこの革命(数学は計算なり➡数学は概念なり)に気づいたのは数学者界隈だけで、身内ネタにしかなっていない。

 数学の世界は広がり続けている。関数の例でもわかるように、単に関数といってもその幅は一昔前と比べると恐ろしく広くなり、「このタイプの関数」「あのタイプの関数」というだけでひとつの研究分野になる程度に複雑になっている。なぜそこまでのことを勉強しなければならないのかは、教育というものが文化の宝石を伝えるものだというだけでなく、あらゆる分野において数学という見えないパターンを見出すメガネをはめてみることが必ず必要になってくるからである。