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にんじんと読む「数学の現象学」

ヴァイアシュトラス・プログラム

基本テーゼ 解析学の体系全体は自然数の概念と演算の理論から純粋に論理的推論のみによって構成されなければならない

  • 動機

 それまで数直線上の点という幾何学的直観に基づいて把握されていた実数、微分、連続性といった概念を含む命題の推論が、直観的把握から逸脱するような結論を出したこと。その原因として、解析学が厳密な基礎付けを欠いているためだと考え、突貫的把握を逸脱しない基盤=自然数とその演算の理論を求めた。

 

素朴抽象主義

 数学的概念の存在論的立場(つまり明らかに物理的な実体を伴わない数学的概念が非物理的な仕方でいかに存在しているのか)について、いくつかの立場に分かれる。最も素朴には、日常的な諸対象を理想化する「抽象」を通して得られる対象だとする立場(素朴抽象主義)がある。しかし一方、素朴には到底理解し得ない数学的概念がある。その典型がクンマーの理想数で、これは経験的に与えられるものを理想化して変化させていったものとしてさえ定義することが困難な概念である。

 自然数の足し算を教えるのに、自然数と加法の定義をする必要はない。それと同じように、従来、数学者たちは素朴な理解だけでその使用法に混乱することはなかった(あくまで、大多数が合意していた、一定の規模があったという意味だが)。しかし新たに創出されてくる新概念はそのような合意が一切とれず、直観的にも把握できないものであったため、正確に「定義」する必要が生じたのだ。

集合アプローチ

 そこで登場してきたのが、””素朴抽象主義的に安定した集合””を用いた定義である。たとえば実数というものは有理数から定義されているし、かつ、有理数は素朴抽象主義的に安定して合意が得られている。この集合アプローチは自然数概念にも及び、それによれば、数概念は「具体的事物の集合の集合」となった。数4とは、「4つの〇〇」のような集合たちのことである。

 ところがそこでラッセルのパラドクスという大問題が生じる。そうとはいえ、ここで生じた問題は実用的な問題ではない。このパラドクスの衝撃は、誰もが合意する論理的ステップを踏んでいるのに矛盾が起きる、という点にある。この事実に驚愕した数学者たちは集合アプローチを取り下げ、今度は公理的手法を持ち出す。

公理的手法

 公理的手法とは、最も基礎的な規定の文言において、そこで登場する概念は、その規定で表現される他の概念との関係性のみによって規定されるというかたち。基礎にある根本概念同士の使い方を明文化したもの。

 集合アプローチにおいては、よく知られている集合を用いて新概念を定義した。それはその概念をどのように取り扱えばよいかに困ったからだ。それなら今度はそれをやめて、単純にその概念の振る舞いを有限の文言で規定し尽くすことにしたのだ。それが公理的手法である。実際のところ、機能としては二つのアプローチに差はないが、コンセンサス自体が明言されるようになったという利点がある。

 

  • 「抽象」を支持する理由

① 数概念はこれ以上定義付けできない根本概念である 数概念というのはなにかが論理的に結合されたものではなく、すなわち定義できない。それゆえ、私たちにできるのはそれら概念が抽出される元となる具体的現象を提示したり、抽出過程を明らかにすることのみである。

② 同値関係による基数定義は受け入れられない それは私たちがふつう「数」と呼んでいるものではない

  • 「抽象」が批判される理由: 算術の基礎として抽象という過程はあいまいである

 → もちろんその過程を数に代入することなどできないだろうが、「自然数の理論」に自然数を使わないようにすることが私たちの目的ではない。

 

基本テーゼ 解析学の体系全体は自然数の概念と演算の理論から純粋に論理的推論のみによって構成されなければならない

課題1 具体的事物のなす集合から自然数が獲得される過程である抽象とはいかなる過程か

課題2 他の数学的対象の無限集合で定義される数学的概念は、どのように把握されるものか

 

抽象とはいかなる過程か

 数学的概念は物理的に存在しているようなものではない。しかし、まちがいなくひとつの対象であり、非時間的に存在している(「イデア的対象」)。そしてまた、そうしたイデア的対象のなかにおいて、数概念は最も下位に属する概念(「スペチエス」)であり、定義することができない。

 ゆえに私たちは数概念を何か別のもので説明するということをやめ、その対象が予め完成した状態で存在すると考えてその間の関係を記述するという考察態度をとらなければならない。つまり、それが既に対象として把握されていることを前提にしてそこから考察をはじめるのである。

 ここで新しい用語を導入しよう。それは「基づけ関係」である。

 この馬、あの馬、その馬という具体的なものと、抽象的な「馬」もともに対象として把握されているがそれらの対象は無関係なわけではない。抽象体である「馬」はこの馬やあの馬といった具体的な馬が把握されていなければ、把握され得ない。このように、どちらか一方の把握が他方の把握を前提としているような二つの対象の関係をフッサールは基づけ関係と呼ぶ。注意すべきなのは、ここで言っているのは対象相互の関係であって、抽象体である馬が個別の馬に還元されると言っているわけではない。するとたとえば「数5」は、5つのりんごや5つの点といった5つの要素を持つ具体的集合によって基づけられている。

 

 馬がこの馬に基づけられているとは、馬が把握されるのはこの馬を介してのみだということである。別の言い方をすれば、具体物「この馬」を「馬」として把握する(①)ときにのみ、抽象体「馬」は把握されるのだ。整理すれば、①という把握作用の内部には具体物「この馬」を把握する作用(②)抽象体「馬」を把握する作用(③)がある。さらには、③は②なしではありえない。つまり①という全体から②は独立に取り出せるが、③は独立には取り出せないということになる。

 ①から独立したものとして取り出しうる部分を「独立的部分」(断片)、独立したものとしては取り出し得ない部分を「非独立的部分」(契機)という。

 

 つまり「抽象」が、「非独立的な部分を特別に意識して全体作用から独立させる」という風に記述されるのである。

対象とはなにか

 数学的概念が対象であることはこれまでの「前提」である。しかし対象とはなんなのか。このことはヴァイアシュトラース・プログラム(解析学の算術化)にとっても、あるいは数学にとっても些末な問題に過ぎないのかというと、まったくそうではない。

 なぜならば、このプログラムは自然数の安定感に支えられたものであり、自然数がはっきりと””まとまった””形をしていなければいけないからである。虹を見て、どこからが赤色でどこからが赤色でないのかはっきり見分けるのは難しい。自然数が虹の赤色のような対象であっては困る。「どこからが自然数で、どこからが自然数でないか」という問題に対象ははっきり答えてもらわなければならない。

 そこで数学者たちは対象であることと、排中律が成り立つことを同一視してきた。その集合が対象であるとは、なにかの要素が属するか属さないかがはっきりしていることであると。たとえば犬というものがまとまった対象であるというのは、なにかを連れてきたときにそのなにかが「犬」なのか「犬でない」のかどちらかであるということだ。

 そうとはいえ、対象であることを排中律が適用できるという論理学的問題に完全にシフトしてしまっていいのかという問題がある。ここでは対象であるとはどういうことかという包括的問題について考え、次いで、排中律について見ていくことにしよう。

 

 なにかが対象として把握されるということ。

 たとえば「このサイコロ」はたしかに対象であろう。ところで、私たちに実際に与えられているものを素直に観察してみると、サイコロの面はたった三面しか見えておらず決してサイコロそのものを見ている訳ではない。

 対象というのは必ず或る与えられ方(射影)を介して把握される。いろいろな射影に統一をもたらすものこそが対象なのである。これは複数の射影が一つの対象になるということではない。対象を対象として把握するとは、多様な射影が自己同一的に留まる何かによって統一されているという構造をもっているということであり、その統一極として機能しているものが「対象」なのだ。=対象はこうした構造を持つという対象という意味で、志向的対象である

 「コップ」という抽象体は具体的コップの把握を介して私たちに把握され、具体物は抽象体「コップ」の具体例として統一され与えられる。ところで、或る場面では対象として機能するものが、別の場面では他の対象を機能させるための射影として働くことがある。たとえばコップはフォークなどと共に「食器」という対象に統一される。

 この””遠位項””と””近位項””は不可分である。つまり、ある認識の近位項として機能しているものは遠位項なしには近位項としての機能をもたないし、ある対象が遠位項として把握されるときそこには必ず遠位項が介在する。もしも各々の射影、近位項を独立に捉えるとそこで捉えられた射影は既に近位項としての機能を失っている。それは単にその””射影””を遠位項とする別の認識である。

 

Q1:自然数という数学の基本概念はどのように把握されているか?

 自然数は具体的対象を下位に持つ高階の志向的対象として把握されている。

 たとえば数5は認識の遠位項として、5つの要素をもつ具体的集合たちは認識の近位項として機能している。

 

Q2:無限集合によって定義されるたとえば実数という数学的概念はどのように把握されているか?

 実数は自然数有理数といった数学的対象を下位に持つ高階の志向的対象として把握される。実数πは認識の遠位項として、πへと収束する列をなす有理数たちは認識の近位項として機能している。

 これと同様に、集合アプローチによって他の数学的対象の無限集合で定義される数学的概念は、無限集合の要素を近位項として、定義されている概念を遠位項とする認識が遂行されている。