にんじんブログ

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にんじんと読む「人は語り続けるとき、考えていない」

 哲学は既存のすべての知識に対する反省を促すがゆえに、もっとも一般的で、誰しもにひらかれたものである。その哲学は専門化の道をたどり、その議論を追うために独特な知識の集積を必要とするようになっているが、互いの理論的前提を共有しないことによる分断を縫い合わせるためには「対話」が必要だ。知の専門化は、詳しい人からそうでない人に教育するという一方的な関係をもたらし対話を無用としてしまっている。

 哲学は誰にでも、老若男女だれにでもひらかれているものである。ところが子どもと哲学対話をすることに抵抗感をもつ人は少なくない。それは、子どもと答えのない問答をすることや新しいスタイルを身に着ける苦労はもちろんだが、自身が積み上げてきた””哲学理論””を重んじ漠然とした対話を軽視するためでもある。彼は言うだろう。「哲学とは知識の体系であり、先人の考えを理解しそして可能ならばそれを乗り越えなければならない。そのためには文献を批判的に読むことだ」だが真理という言葉を定める権利を専門家が持っているわけではない。それは一般の人々の多様な真理概念を無視して成り立っている。この考え方においては「哲学とは絶対の権威ではない。哲学は学説ではなく、その人の生き方そのものであり、生きている限り続く探求と模索である。専門家などいないし、誰も素人ではない」これは思考を民主化する。

 知識というものはいつだって不完全なものであり、さらなる探求によって乗り越えられる―――このような真理の飽くなき探究は大変教育的だが、こうも考えられる。対話は知の探究ではなく、「知とされるものを脱学習し、誤った知識を浄化する」ためにある。この考え方はある意味破壊的である。この考え方の文明においては、いかなる知も蓄積しない。『よりよい』はなく、たんに『よい』がある。進展はなく、質的に異なるフェーズに変容するだけなのだ。そこではつねに初めの一歩にとどまり続けるだろう。対話はあらゆる思想の固定を取り払い、アイデンティティを取り壊し、流動的な生を生きるための技法となる。