にんじんブログ

にんじんの生活・勉強の記録です。

MENU にんじんコンテンツを一望しよう!「3CS」

にんじんと読む「対話の技法」第二部

第二部 危ない対話への勇気

 現代人の今の態度のまま「対話」を推奨していくことには問題がある。

 プラトンパイドン』において、「ミソロゴス」(言論嫌い)について語られたことがあった。言論嫌いというのは、どんな言論にも真理などない、世の中に出回っているものは全部嘘っぱちで金輪際信頼するものかということである。現代においても、本当に正しいことなどありはしないという不信が広まっているように見受けられる。ほんとうに必要なのはそれを見分ける努力と責任であるのにこれを放棄して全部間違いだと開き直っている―――まじめに人の言葉を受け取り、裏切られ、虚しくなり。まじめな人ほど世の中の嘘や、責任のない言葉に振り回され徒労感を抱く。そこで『最初から信じない』という姿勢によって生きて行こうとしてしまう。

【ミソロゴス】あらゆる言論は信頼できず、確実ではない、なぜなら世の中に確実なものなどなく、真理なんて存在しないからだ

 さて、対話というものは答えが出ないこともある行為だった。いったいそんなことをしてなんの意義があるのか? なにかを成し遂げたりすることが目標ならば、その過程は単なる手段となる。一方で、たとえば「駅までの散歩」のように、途中で道を変えたからといってそれが無意味になるわけではないような、そんな行為もあるだろう。アリストテレスは前者を制作的行為・後者を活動的行為と呼んで区別した。学校のクラスにおけるいじめ問題についての対話は、その奥にある様々な問題や側面を浮かび上がらせることだろう。たとえなにか具体的な方策などが合意されなくとも、当事者たちでその問題をしっかりと見つめることが大切だ。

 きちんと対話を、言論を行うには相応の技法が必要になる。これを学ぶにあたり、まずは対話の危険性を理解しておこう。

  1.  言葉が相手に対してふるう攻撃性や破壊性 対話は喧嘩別れになることもしばしばあり、この人と話しても埒が明かないと途中でやめてしまうこともある。それだけ言葉というのは人の感情を揺さぶるものなのである。人は対立を避け、そして対話を避けるようになるのだろう。対話には言葉の、つまりは理性のコントロールが必要なのである。言葉が貧しく、もどかしくなると、暴力に走ってしまうこともある。私たちは対話がうまくいかないという経験を積み、挫折を通じて訓練して行かなければならない。豊穣な言葉に接し、その能力を磨く情操育成の努力が必要である。対話はなにかに合意させようと説得することではないのだから、よほどの相手でない限りは、対話がうまくいかないことはむしろ違う意見を取り込むためには吉兆なのである。
  2.  言葉が相手を取り込み動かす支配性や扇動性 対話は見かけだけのものになりがちである。相手に自分の言うことをそのまま受け入れさせるような対話は対話ではない。同じ考えの人しかいない場所で盛り上がるのは対話ではない。私たちは自分の考えと違う人を遠ざけておきたがる。対話はそのぬるま湯から抜け出す力を持っている。