密集の事実
私たちが見ているもの、私たちをそんなにも驚かせるものとは何だろうか。それは文明によって創り出された諸々の施設や道具を占有する群衆そのものの姿である。
昔はそうではなかった、という。だがこれは私たちにとってはありふれた光景だ。どこへ行くにも人だかりができている。以前はこうではなかったというなら、なぜこういう風になったのだろうか。オルテガもそのように問う。そしてこうした「群衆」あるいは「大衆」というものに対置される、少数者集団に目を向ける。その少数者集団は、群衆に対置されるもの、つまり「非ー●●」として一致する。彼らは大多数を排除する欲求や思想・理想を持っている。
これをさらに逆にいえば、目の前の人間が「大衆」であるかどうかもはっきりする。
良きにつけ悪しきにつけ、大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。
人間に対して為され得る最も根本的な区別は次の二つである。一つは自らに多くを要求して困難や義務を課す人、もう一つは自らに何ら特別な要求をせず、生きることを既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成への努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている人である。
「少数者集団」は、特別な資質がない限り実践できないさまざまな分野の業務や活動・機能を担う。大衆は社会の健全な力関係の中で果たすべき役割を心得ていたが、今はそうではないという。だがいわゆる少数者集団のなかにも「大衆」と呼ばなければならないような人間がいるという、厳しい批判を加える。……
つまりは何をするにも資格がある。だというのに、『密集の事実』が告げているのは、「大衆」がわらわらと「少数者集団」の門の前にやってきて、●●でないもの入るべからずと書いてある看板を押しのけているということだ。そしてそれが自由なのだ。
むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。