にんじんブログ

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選択について

 エピクロスは精神の平静と肉体の無苦(アタラクシア)が幸福であると考えた。にんじんはこれに付け加えて、あるいは補足して言いたい。そこにあるものを愛でること、音楽をきれいだと思ったり、花をきれいだと思ったり、そういったことも、幸福の主要な要素であると。その境地は私たちには計り知れない。たとえば彼は、私たちと同じように「バットマン」を見て映像的な美や、彼の行為を味わうとしても、嫉妬したり、反発したり、自らを卑下したり、金持ちでないことを嘆いたり、運命を呪ったり、そうしたことを行わない。

 アタラクシアを得るために、一体どれほどの努力が為されてきたか。だが、非アタラクシアの状態は「生活習慣病」ではない。健康というものと似たところがあって、いくら努力したって病気になるときゃなる。ならんときはならん。つまりある程度の「幸運」が、アタラクシアを支えている。それはどうしようもないことで、たとえば自分の親とか家庭環境とか経済状態とか、社会情勢とか、そんなことはどうしようもない。徹底的な不運に見舞われたとき、「君は幸福になれる!」と言ってやるのは意味のあることだが、「幸福になれるのになんで〇〇してないの?」と言うのはどうかしている。その人が悪いわけではない。だが、こうやって個人を責め立てるのは、よくみかける、ありふれた出来事である。環境を整えることがその大きな面で幸運に依存しているとしても、努力することの可能性があるだけで個人の責任に転嫁するのが好きなのだ。この傾向も、自身のアタラクシアへの道を阻害しているのだが。

 「精神の平静」は、言葉にすれば簡単だが、実現が難しそうだ。私たちは時折当たり前の事実を忘れてしまう。つまり、自分が怒っているとき怒ることを意識的に選択したわけではないということを忘れてしまう。この事実はすぐに一般に敷衍できる。私たちは私たちが何をするのかよく知らないし、まるで次元の狭間からいきなり手が伸びて来て殴られるような唐突さで、怒ったり、何かを欲したり、悲しんだり、よろこんだりする。だがそれは次元の狭間から伸びてきているわけでも、自己の内奥から溢れて来ているわけでもないのだ。月見バーガーのCMを見て月見バーガーを食いたくなるように、「月見バーガーのCMを見た」から、欲しているのだ。もちろんそれだけではないのだが。「欲する」というのはきわめて社会的な現象で、まったく個人的な出来事などではない。私たちは残念ながら、まったく選んでいない。「ん~ どっちにしようかな~」と言っているときでさえ、もしかしたら。でもこれは「自由ではない」という主張とは違う。少なくとも、ギャルゲーみたいに行動をリストアップしてそのなかから「選択」するような「自由」は私たちにはない。誰かに殴りかかるとき、「殴る? 殴らない? うーんどっちにしようかな。よし、今回は殴っちゃおう!」と言っているやつはいない。

 じゃあもうなにもしなくていいのか。どうせ自分では選べないし。

 そう言いたくなるかもしれない。だが自分の生活に適合した無理のない節約術を耳にして、行動の変わらないやつがいるだろうか。たとえそれが「反応」にすぎなかったとしても。だから学ぶことには意味がある。学ぶとなんらかの側面で「より善く」なる。それは別に図書館に行って、おかたい専門書をひらけと言っているわけではなく、それは日々のなかでも十分学べるものだ。社会の荒波に揉まれろというひとは、この種の学びに期待しているといえるかもしれない(にんじんは特に期待していない)。そうして徐々に変わっていく。明文化されていれば「ここは違うな」「矛盾してるな」とかいいながら、自らを整理していけるかもしれない。「こうしたほうがいいんじゃないか(自分はいまそうではないから)」「本当にこうなのか?(そうかもしれないが)」

 人は一生この作業をやる。そして死ぬ。この記事を読んだ後、あなたは仕事にでかけ、鬱陶しい上司と会うかもしれない。鬱陶しさがあなたのなかに巻き起こる。そのときに「あぁ、鬱陶しい感情が湧き出てるな、んー」となれればこの記事は役立ったことになるし、精神をかき乱すそうした「選択」をどう修正していくか、どう努力できるのか、何についての理解が足りないのか、これに怒らないひとはどういう気持ちなのだろう、といったようなことを考えたらなおさら役に立ったことになる。

 何をするかは選べない、どう感じるかも選べない。長年使った倉庫を整理するみたいに、目につくところから片づけていきましょう。整理箇所は、向こうから教えてくれる。