時代の高さ
前章で確認したことは、大衆の支配がもたらした歴史的水準全体の上昇は好都合なものだということである。この水準の「高低」に、しかし、著者は次のようにいう。
ほとんどすべての時代において、自分たちの時代の方が他の過ぎ去った時代よりもさらに優れた時代だとは思えないのである。むしろ普通なのは、人びとが過去のある時代の中に、さらに充実した生を持つ優れた時代をぼんやりと想定することだ。
十九世紀のサロンにおいても、お決まりの質問はこうだったという。「あなたはどの時代に生きていたらよかったと思いますか?」彼らは自分たちが絶頂の時代にいると感じながら、自分たちが誰の肩にのっているかを意識していた。
だが現代はどうだろう。現代は「自分が過去のあらゆる時代、名だたるすべての時代の上に位置していると思っている」。「死者は冗談ではなくまさに完璧に死んで」しまい、伝統的な「模範、規範、基準もすでに役に立たない」ために、どんなことでも「吹きっさらしの、今ここの現場で解決しなければならない」。現代は自分の力、自分たちの時代の高さを誇ってはいるが、なんだか頼りなくもある、そういう時代なのである。