普段は内容を要約しているけれど、今回は読みながら考えたことを書いていきます。
- 人とかかわらなければかかわらないほど、他人のことがバカに見えてくるのかも……と思ったのは、人が深い話をするのは、その相手としょっちゅう会っていて過ごす時間が長いほどだという、当たり前のことが書いてあったからだ。密室の方がしゃべりやすいのは当然だけれど、誰かと密室で過ごす機会はほぼないし、それこそ仲良しだけで、異性とは余計にそんな機会がない。
- 親は自分のした教育や子育てについてもっとよいやり方があったのではないかと悩むそうだ。だがウィニコットによればそうではないという。たとえばiphoneをコンセントにさすとき「電力会社ありがとう」と思うことがないように、パーフェクトすぎる親というのは対象として認識されない。だから子供に深刻な出来事が起きない程度に""ほどよい""親のほうが教育にはいいのだと。これは別に母親に限らず、行為や活動に障害があって対象を認識するきっかけになるという一般的な話でもある。つまりは世の中のありがたさもたまに起こる不具合ゆえにもたらされる……とするのは拡大解釈のしすぎだろうか。
- アーレントは「持続性」に価値をおいたが、価値の話はともかく、いつも変わらずそこにあってくれるというのに安心感を覚えるのは間違いない。お金を大量にもらうより定額を毎月振り込んでもらうほうが安心、みたいな。そして話を聞いてもらうことはきわめて当たり前で、当たり前がゆえに忘れてしまう。そう思うとたまの喪失体験(死別・失恋・失業・目標喪失・物品処分等々)は「幸せは失ってから気づく」ためにあるのかもしれない。喪失によって悲しまれるそれらのものがもたらしてくれた世界の安定は、私たちが誰かとなにかを一緒にすることだけでなく、一人きりで孤独になにかに打ち込むためにも必要なものだ。まさに「孤独の前提は安定した現実」。人は一人では生きていけない、というのも、まったくの自然のなかで生きるよりも、ある程度は社会の中に溶け込んだほうが結果的により安定するということなのかも。
- 誰かと関わるためにはなにが必要なのだろうか。ぼくはこの問いに対して、「協力の傾性」を示すことだと答えてきた。つまり、人間関係の本質は協力という営みにあり、人間関係の不安は相手が広い意味で協力的かどうかの不安なのだから、「私は協力的ですよ~」と示すことが一番肝心だということだ。だが、具体的にどうすればいいのか? ―――著者はこれに応えてくれたように思う。つまり「体のコミュニケーション」であり、「話を聞いてもらう」技術である。話を聞いてもらうというのは話がうまいことではなくて、【二つの体が近くにあって、ぼんやりとした曖昧な状況に置かれている】ことの積み重ねから始まる。連れションに批判的な人もいるが、特に理由なくなんとなく一緒になにかするというのは大事なことなのだ。そして次に大事なのは、たまに失敗すること。そういう風にしていたら「前こんなことがあってさ」「なにがあったの?」と何気なく話がはじまる。
- この技術がうまくいくのは「なにかあった?」と聞いてくれる人たちである。だから私たちもその営みに参加しなければならない。いつも白いマスクなのにいきなり黒いマスクで来る人がいたら、別になにも興味はなくてもただ会話する・関わるという目的で「どうしたの?」と言ってあげる。相手もそれを待っているものだ。