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むなしさについて

むなしさについて

 日々の生活のなかでむなしいと感じるときがどれほどあるだろう。「人生はむなしい」というのはにんじんのフォロワーの言葉である。この種の発言は、ある特定の人物というよりも、タイムラインでは毎日のように聞かれる。一部には冗談が含まれるとしても、たしかに、実際に、そのような感覚を持ったことがないとは言うことはできないだろう。これを書いている今も、ちらっとTwitterを覗いてみると、やはりむなしさについて話すフォロワーの姿が見える……。

 ジュリア・アナスは『徳は知なり: 幸福に生きるための倫理学』において、〈生きているということ〉と〈生活の環境〉を区別し、幸福とはなんらかの状態(環境)ではなく、なんらかの状態のもとでいかに生きるかという話であると書いたのはにんじんのなかで強く心に残っている。マズローの欲求階層説によれば、人間は「衣食を足りて礼節を知る」。つまり低次の欲求を満足させたうえで次の階層、最後には自己実現の欲求へと向かっていく。非常に満ち足りた環境にありながら、自殺未遂を起こしたり、「人生はむなしい」と言いたくなることがありうる。……だが、マズローは間違ってはいないか? 衣食が足りていないものだって、「むなしさ」に囚われる。いや、むしろ、足りていないときに限って強く、とも言いたくなる。

 このことを指摘したのはヴィクトル・E・フランクル生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫)』である。「むなしさ」に囚われることを、彼は「実存的真空」の中にあるといい、それによって生じることがある、実存的欲求不満によって生じることがある精神疾患を精神因性神経症と呼んだ。

「ぼくは学位をもち、ぜいたくな車を所有し、金銭的にも独立しており、またぼくの力に余るほどのセックスや信望も思いのままです。ぼくにわからないのはただ、すべてのものがどのような意味をもつべきかということだけです」

生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫)

 ここに書かれていることには、はっとさせられるものがある。実存的欲求不満に起因すると思われる攻撃性や性欲のことだ。《攻撃的衝動は、何よりもまず、実存的真空が現前しているところで繁茂するように思われます》というのは、昨今ニュースになるような通り魔的犯行を思い出させる。

 次に、Twitterのフォロワーのために性欲について紹介しよう。人間の性欲というものは単なる性欲よりも以上のものであり、《性欲の可能なかぎりの「人格化」は、相手の人格の方向においてだけ望ましいことなのではなく、それは自分自身の人格の方向においても望ましい》。だが、もしも性欲を退行させ、相手の人格に関わらず性行為が性行為それ自体に向けられれば向けられるほど性的機能もまた退行していく。エロサイトの勢いはとどまるところを知らず、それがインフレーションすればするほどに、性の価値は低くなっていく―――にんじんは性欲が「異常に」強いというのは、むしろ性によって何も得られないからではないかと推測している。そういう人は、むしろ異性に接していないときはいきいきとしているのに、異性に接するようになった途端どん底に落ち込む。相手を非人格化する態度は性神経症患者が大いに必要とする自発性、直接性、自明性、無邪気さをただ奪うばかり》なのである。

ある事柄に尽力し、あるいはある人格を愛することによって、人間は自己自身を成就します。彼が自分の課題に夢中になればなるほど、彼が自分の相手に献身すればするほど、それだけ彼は人間であり、それだけ彼は彼自身になるのです。したがって、人間はもともと、自己自身を忘れ、自己自身を無視する程度に応じてのみ、自己自身を実現することができるのです。

生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫)

 むなしさの問題は、退屈と非常に似通っている。それはひとつの難物である。どう難物なのかといえば、にんじんが考えるところ、それは普通の問題ではないのである。「一体なにが私の空虚を埋め合わせるのか?」例外はありうるにしても、こう答えておいてさしあたり間違いはない。「なにかを求めているわけじゃあ、きっとないんだよ」ジュリア・アナスを思い出そう。なにかの状態に達することによって、私たちは長期的幸福を得ることはない!

 ショーペンハウアーの振り子というのをご存知か。

 そんな風に呼ばれているのかは知らない。だがこういって覚えやすいのは、人間というのは欠乏と退屈のあいだを揺れ動いているというのが、その主張であるから。つまりこういうことだ。欲求とは欠乏であり、欠乏は満たした途端欠乏ではなくなる。満足は一瞬で消え失せ、退屈がやってくる。退屈は苦しい。だからこそなにかを欲求するが、欲求するとは欠乏であるから、人は欠乏で苦しむ。

 願望と欲求を区別せよというのはスポンヴィルである。願望とは欲求であり、特に、望む対象が現実になく、それがどうなるか知らず、自分ではどうすることもできないものである。たとえばあなたはこう望むかもしれない。「ああ、あの子の手術がうまくいってくれればいいのに!」うまくいった彼は未だに私たちの中になく、どうなるかわからず、かといって自分にはどうしようもない。だからこそ私たちは望むことができる。だが肝心なのは、これが欲求のすべてではないということだ。ショーペンハウアーは欲求は欠乏だといったが、欲求というものを狭く捉え過ぎたようだ。

 願望に対置される欲求は、非現実ではなく現実にあり、知り、自分でなにかを意志することができるようなものである。喉が渇いたあなたはレストランに寄ってビールを頼む。ビールが出て来たとたん、あなたの望みは消え失せる。ショーペンハウアーは振り子のことを私たちに告げる。だが私たちはビールを欲することはできる。「ぼくはなんて幸せものだろう。こんなにおいしいビールを飲めるなんて!」

 スポンヴィルの区別は、私たちを実践へと、意志することへと動かす。賢者とは絶望――まったく望みを持たぬ――のうえにある。彼らはなにも望まない。いまそこにあるありのままを愛する。「したいなあ」ではなく、それを欲するがゆえにそれを行動に移している。「したいこと」は、その者に《まず追求という動作そのものを引きおこし、そしてそれを方向づける》(アウグスティヌスの愛の概念 (始まりの本))力を持っている。幸福の秘訣、それは何も望まぬこと。ただし、欲してもかまわない!

 エピクロスは幸福をアタラクシア、つまり精神の平静と肉体の無苦に求めた。私たちが一般に感じる「よろこび」などの快楽は、アタラクシアを基礎として成り立つ。なぜなら快楽が生ずるのはその刺激がアタラクシアと離れている程度、言い換えれば、アタラクシアに回帰する距離に関係しているから。振れ幅が大きいほど、快も大きい(場合によっては苦痛にもなる)。アタラクシアとは、肉体の無苦という「幸運」のうえに、「絶望」を乗せたものではないか? 私たちは満ち足りた生活のうえに絶望を乗せ、そこに幸福を重ねるのだ。